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斜陽(4)

「確かに、俺は馬鹿だよ」


 私の頬に添えられていた手が、静かに下に降りていく。首筋、肩、腕に触れ、手の甲の上で止まったそれは、とても熱かった。


「だから、愛理の気持ちに気づいてあげられなかった」


 そう言った倖希くんの表情は、春のように微笑んでいたあの男の子とは反対に、幻想的な美しい雪原のようで。


「(ゆき、くん?)」


「ずっと、謝りたかった。……傷つけてごめん」


 倖希くんは過去から目を背けていた私とは正反対に、真っ直ぐにぶつかってきた。心ない言葉で私を差別してきた人たちと同じ、“普通”の人だとは思えないその姿勢と想いに、私は首を横に振ることしかできなかった。


「……愛理は悪くない。気づけなかった俺のせいだ」


「(違うよ。私のせいだってば)」


「いや、俺のせい」


 こうして埒が明きそうにないやり取りをするのはいつぶりだろう。彼もそう思ったのか、小さな笑いをこぼしている。


 雨はまだ降り止んではくれないけれど、私たちの上にあった雨雲はもう去っていた。だからと言って、まだあの教室に戻る気にはなれない私は、苦しい世界から目を背けるために雨に打たれていた。


 倖希くんは私が泣いていたことに気付いていた。けれど、その理由までは訪ねてこなかった。それは私から話すのを待っているからだと思う。その優しさに、私は小さい頃から甘えていた。だから、あんなことが起きてしまったのだ。


(……ごめんね、倖希くん)


 私は隣を見上げて、びしょ濡れになることを厭わずに傍に居てくれている彼に謝った。永遠に聞こえない声は、ただの空気にしかなれないのに、それすらも雨に掻き消されている。


 冷たい雨は、やっぱり嫌い。だけど、今日だけは好きでいよう。泣いている私の顔を、雨で誤魔化してくれているのだから。


 私が途方もなく広い空に手を伸ばして、何かを呟いた時。


「日比谷さん」


 聞き覚えのある声が耳元にあり、突然現れたように伸びてきた白い手が、私の手を掴んだ。雨のように冷たい手。それは、彼のもの。


「(……くるすくん)」


 その名を呼んだ時、隣にいる倖希くんが弾かれたように私の背後を振り向いて、みるみるうちに目を丸くさせていった。


「……アンタ、誰?」


 倖希くんの呟きで、私も背後を振り返った。そこには予想した通り、来栖くんが佇んでいる。


「……来栖、直央(なお)。あなたは?」


 私はその時初めて、来栖くんのフルネームを知った。知る機会なんていくらでもあったし、日直当番の日の黒板やテストの順位表を見れば、それを知ることは出来たのに。そうしなかったのは、自分のことで精一杯だったという証だ。


「俺は葦原倖希。愛理の幼馴染だけど」


 倖希くんの答えに、来栖くんは驚いたような顔をすると、いつもの声のトーンで「そうなんだ」と言った。そして、掴んでいた私の手を離す。


 掴んでおきながら自ら離したその理由はわからない。けれど、それは不機嫌になった倖希くんに原因があるような気がした。


「……アンタが愛理を泣かせたの?」


 倖希くんは一つため息を吐くと、来栖くんに向かってそう尋ねた。私は倖希くんの服の裾を引っ張って、違うと否定したのだけれど、倖希くんは私を見てくれない。


「そうだと言ったら、あなたはどうするの?」


 顔を強張らせている倖希くんに対して、来栖くんは挑発的な笑みを浮かべながら返事をした。全く無関係なのに、どうしてそんなことを言うの、来栖くん。


「……どうもしないよ。愛理を泣かせた人なんてどうでもいい。愛理の方が大事だから」


 倖希くんは来栖くんから私を隠すように立つと、はっきりとそう言った。だから、その時来栖くんがどんな表情をしていたのかは知らない。


「何があった? 愛理」


 倖希くんは来栖くんに背を向けると、私の目を見ながら、今の今まで触れてこなかったことについて聞いてきた。それは私が授業時間中にここに来ていた理由だろうか。それとも、泣いていた理由だろうか。


(どちらも、倖希くんには知られたくない)


 倖希くんは私のためならば、自分のことを放ってでも何とかしようとしてしまう人だ。そんな彼に話したら、二年前と同じことが起きてしまう。だからと言って、倖希くんを振り切って行くなんてこと、私には出来ない。


 私には一体何ができるんだろう。そう考えても、できないことの方が圧倒的に多くて、一つも思いつかなかった。


「おいで、日比谷さん」


 その時、黙って私と倖希くんを見ていた来栖くんが私の名前を呼んだ。導かれるように顔を上げた先には、私に手を伸ばしている来栖くんの姿がある。


「一緒に、帰ろう」


 雪融けの春のような柔い微笑みを飾りながら、私を誘っている。その手を迷うことなく取ろうと思えるのは、どうしてなのだろう。彼にとっての私は、最近お近づきになれた、ただのクラスメイトであるはずなのに。


「アンタ、何なの?」


 地を打ち付けるように降る雨と、何故か不機嫌な倖希くんがいるこの空間は、なんだか張りつめていたけれど。来栖くんの柔らかな声に、それは破られた。


「何者でもないよ。でも、強いて言うなら……一方的に、彼女を大切に想っている男」


「っ……!」


 来栖くんはそう言うと、ゆっくりと私の元へ歩み寄ってくるなり、私の右手を掴んだ。


「さあ、一緒に帰ろう」


 吸い込まれそうなくらいに美しい瞳に、子供みたいな顔をしている私が映っている。ふいに、雨は好きだよ、という今朝の彼の言葉を思い出して、肺の奥が震えた気がした。


「まなっ……」


 倖希くんが私を呼んでいた。けれど、振り返られなかった。


 なぜなら、来栖くんに強く手を引かれた瞬間に、目に映るもの全てが真っ白になったからだ。

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