斜陽(2)
「おい、財布が出てきたってよ」
「誰の?」
「平野の財布が、日比谷の机の中から出てきたんだってよ」
「日比谷って、声が出ないヤツ?」
遠巻きに見ていた人たちの声が聞こえる。あんな風に囁かれることに私は慣れているはずなのに。聞かないようにしてきたのに、今日の私の耳は変だ。やけにはっきりと聞こえてくる。
どうして平野さんの財布が、私の机の中に入っていたのか。そんなの、私が知りたいよ。
隣にいる来栖くんが、私を呼んでいた気がしたけれど、体が動かなくて振り向けなかった。何も出来なくて、ただ呆然と突っ立っていた。
「春奈! 春奈が探し回ってた財布が、日比谷さんが持っていたって本当?」
ほどなくして、平野さんの友人らしき女の子たちが何人かやって来た。一体どういうことなの、と他の人にも聞こえるような大きさの声で言い、それを聞いた人たちがまた私を見ては、何かを囁いている。
他人の視線がこんなにも痛いと感じたのはいつぶりだろう。秋があまりにも穏やかだったから、途轍もなく苦しく感じる。
「…ねえ、日比谷さん。怒らないから、正直に答えて」
財布を胸の前でぎゅっと大事そうに抱いている平野さんが、目を潤ませながらそう尋ねてきた。
私はこの声が無音だということを忘れて、必死に唇を動かした。何の音も発さないのに、それでも口をぱくぱくとさせている私を馬鹿にするような忍び笑いも聞こえて、目の奥が熱くなる。
私はそれを必死に堪えることしか、出来なかった。
「おい、ちょっと待てよ。愛理がそんなことするわけないだろ」
その時、私の後ろに居た由香が視界に現れた。私を庇うように斜め前に立つと、ついに涙を落とした平野さんを睨んでそう吐き捨てる。由香の言葉に、彼女や周りに居る人たちは言いかけていた言葉を飲み込んだけれど、それは一時凌ぎに過ぎなかった。
「あなたには関係ないでしょ、伊東さん」
「庇うってことは、共犯者?」
「てかさ、そもそも日比谷さんは障がい者なんだし…」
「(っ……、)」
私を庇ってくれた由香を共犯扱いするだけでなく、最も恐れていた言葉をぶつけられた私は、今度こそ泣いてしまいそうになった。
泣いてもいいんじゃないかって、思った。
(なんで、こんなことに……? 私は何もしていないのに)
——障がい者。その単語が出てから、次々と心なき言葉が飛び交い始めた。だから仕方ない。だったらしょうがないのかな。でもだからって…と、温度を持たない声が上がっている。
「障がい者だからって、しょうがないねって許せなくない?」
「でも財布じゃん。犯罪じゃないの?」
「もしかして、一連の事件の犯人も、日比谷さんなんじゃ…」
「どうなの? 日比谷さん」
彼らは私が声を出せないことを知っているのに、答えを求めてくる。私もただ首を横に振る意思表示をすればいいだけの話なのに、それすらできなかった。
それすらできなかった私は、どうしたらいいの。そう、心の中で声にならない声を叫んだ時。
「——待って。そんな一方的に決めつけるなんて、どうかしてる」
冷たい空間とは正反対な柔い声が、響き渡った。
それは隣に座っていた来栖くんのものだ。その声を聞いた瞬間、凍ったように動かなかった何もかもが、溶けるように自由になった。
「(くるすくん…)」
そっと右を向いたら、すぐそばに彼の端正な横顔があった。その目は彼女たちを真っ直ぐに見据えている。
「彼女の机の中から出てきたからという理由で、彼女が犯人だと決めつけるの?」
彼は私が誰かに言ってほしかった言葉を紡ぐと、私を全ての視線から守るように私の前に立った。その背を見ても、今日は苦しくならなかった。
「…だって、障がい者じゃない」
「彼女は声が出ないだけで、他はあなたたちと変わらない人間だ」
彼の言葉に、その場にいる誰もが押し黙った。それを好機と思ったのか、由香が私の肩を抱き寄せる。
来栖くんは平野さんが手に持っている財布と私の机の上にある誰かの財布を一瞥すると、小さなため息をこぼす。
「自分が犯人であることを隠すために、犯人が別の人の机の中に隠したのかもしれない。…他の可能性を考えもせずに、彼女を犯人だと決めつけるのはどうなのだろう」
そう言い終えた来栖くんは、そうだよね? とでも言うかのように平野さんを見た。
彼女は納得できていないようだったが、好きな人である来栖くんに言われたからなのか、受け入れるように頷く。
平野さんが財布を胸に自分の席に戻ったのを機に、女子たちは納得したように戻って行ったが、何人かの男子生徒はその場に残っていた。
「…まだ何か?」
「お前、頭おかしいんじゃねえの? 来栖」
彼らは正論が気に入らないのだろうか。来栖くんを睨みつけると、薄っすらと笑いながら近づいてくる。
「障がい者を庇うなんてどうかしてる」
「そうだよ。犯人は日比谷に決まってるのにさ」
だから、どうしてそうなるのか。そう叫ぼうとしたのだが、来栖くんの腕に止められた。
「それは、差別をしていると受け取っていいの?」
「差別も何も、そうしかねえから言ってるんだろ。…お前、障がい者と俺らが平等な人間だとでも思ってるのか?」
それは、私のような人間に対しての本音だと思った。今まで面と向かって言わなかっただけで、心の中ではそう思っていたのだろう。馬鹿にするように言ってきた男子生徒には腹が立ったけれど、別の感情の方がそれを上回っていた。




