斜陽(1)
名前を呼んで、それからどうするのか何も決めていなかった。それは仕方のないことだ。何せ、予想だにしていないことが起きているのだから。
元気だった? そう訊けばいいだけなのに、何も言えない。だって、私は彼にそんなことを言う資格がないんだもの。
私はたくさんの優しさをくれた彼を、傷つけてしまったから。
「…久しぶり。元気だった?」
二年前から変わらない耳に心地いいアルト声が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。突然の再会だというのに、彼は穏やかな表情をしていた。
「(元気、だよ。…倖希くんは?)」
「元気だよ」
私の口元をじっと見つめていたダークブラウンの瞳は、彼の色素の薄さを際立たせている。来栖くんとはまた違った美しさを持つ倖希くんは、密かに女の子から人気があった。
(わたし、どうして来栖くんと並べたんだろう)
倖希くんは立ち上がると、私に手を差し出した。躊躇いがちに手を伸ばせば、相も変わらず綺麗な白い手に導かれる。
その手は、私と話したいからという理由で、手話を学んでいた手だ。また明日ね、と伝えあっていたあの頃が、遠い昔のように思える。
「……あれから、気になってて。でも、元気そうでよかった」
そう寂しそうに呟かれた声に、私は何も返せなかった。私も来栖くんのように人の心が読めたのなら、あの時倖希くんを傷つけずに済んだのかな。
彼が苦悩している力を便利に使う想像をしている自分がいることに気がついて、自分を滅茶苦茶にしてしまいたくなった。
「じゃあ、俺は行くよ」
「(ゆ、ゆきく……)」
倖希くんは言葉の通りに私に背を向けると、歩き出してしまった。その場に残された私は、まだ彼の温度が残っている手と小さくなっていく背中を交互に見て、どうしようもなく泣きたくなった。
「……葦原、変わってないね」
由香の呟きに私は頷き返した。本当に、倖希くんは変わっていない。変わったのは、少し背が高くなって、ますます素敵な男の子になってしまったことくらいだ。
次の六限の授業が自習であることをいいことに、私は由香とゆっくりと歩き始めた。降りしきる雨の音はまだ大きい。せめて帰る頃には弱まってくれないだろうか。
「でも、どうしてこの学校にいるんだろ。隣にある高校の特進科に受かったって聞いたのにな」
「(え?)」
小首を傾げる私に、由香は知らないのかと訊いてくる。
最後に言葉を交わしたのは高校受験前だ。倖希くんは頭がいいのは知っていたけれど、どこを志望していたのかは全く知らなかった。でも、さっきここで会ったから、てっきり同じ高校を受験していたとばかり思っていたのに。
「何かあったんかな?」
私のことを知ろうと心を尽くしてくれた彼に対して、私は何かを返すどころか、最低なことを言ってしまった。それ以来一度も顔を合わせなかった彼と、再会することができた。
大切なのは、これからどうしていくかなのに、あの頃に戻ってもう一度やり直せないかな、なんて悍ましいことを思ってしまった。
教室内は賑やかだった。それは次が自習という名の自由時間だからだろう。自習用にテキストやノートを開いている人はほんの数人だ。その他の人はスマホを弄ったり、何人かで集まっておしゃべりを始めている。
自分の席に戻ってきた私は、ここが学校内で一番落ち着くなあと思いながら、手に持っていた教材を机の上に置いた。
「…何かあった?」
すでに席に座っている来栖くんが、青いイヤホンを片付けながらそう言った。ここで何もないよと嘘を吐いたところで、ついさっきの出来事は来栖くんに読まれてしまうのだろう。
「(なんでもないって言ったら、嘘になる)」
「素直だね」
来栖くんは小さく微笑んだ。その綺麗な瞳に、私の心はどこまで見透かされているのだろう。どこまで知られてしまうのだろう。
「日比谷さん?」
知られたくないことから目を背けるように、私は教材を机の中に入れたのだが、空っぽのはずの机の中に何かあったのか、それとぶつかって入りきらない。
中に何か入っている。私は机の中に手を入れて、それを引っ張り出して、固まった。
「(なに、これ……?)」
それは見覚えのない財布だった。一つではなく、四つほど出てきたのは何故なのだろう。誰かが間違えて入れたのかな。
その瞬間、私の背後で聞き覚えのあるソプラノ声が響いた。
「ねえっ、それ、私の財布っ……!」
そう叫んで、私を指差したのはクラスメイトである平野さんだった。思いのほか声が大きかったのか、私の周辺にいる人たちがこちらを振り向いている。
私は今すぐ消えてしまいたい衝動に駆られた。悪いことなんて一つもしていないのに、大勢から視線を向けられると、自分が存在してはいけないような気持ちになるのだ。そう思ってしまうのは、私が弱いからだろうか。
「(そうなの? 何故か知らないけど、私の机の中から出てきて……)」
「どうして日比谷さんが私の財布を持ってるの!?」
彼女は私の声なき声を自分の声でなかったことのように消すと、私の手にある財布をひったくり、泣きそうな顔でそれを胸の前に抱いた。
私は何も言い返せなかった。ただ「違う」と主張すればいいだけのことなのに、私の唇も手も凍ってしまったように動かなかった。