星彩(3)
懐かしい夢を見た。そこには幼い頃の私と、そんな私を諭す母の姿と、二年前に喧嘩別れをした幼馴染が居た。まだ片手で数えるほどの歳の頃だと思うが、その姿を見て、彼は元気にしているのか気になった。
『まなりの声になりたい』
そう言って、私のために手話を学んで、いつだって私の手を引いて歩いてくれたのに。身勝手な私は、そんな優しい人を傷つけてしまった。
傷つけたくせに、ふと彼はどうしているのだろうと思った私は、やっぱりどうかしているのだろう。
「——あら、愛理。今日は早いのね」
目覚めた私は、顔を洗うよりも先に母の顔が見たくなって、リビングを訪れていた。母につられるように時計を見れば、いつも私が起きている時間よりも三十分早い。
「(夢を、見たの)」
「夢?」
母に伝わるように大きく口を動かした私は、見事に私が言いたかった言葉を読み取った母の声を聞いて、小さく頷いた。
「……そう。早起きしちゃうってことは、怖かったのね」
別に怖くはなかったけれど、こうして母に頭を撫でられて安心しているから、そういう感情を抱いていたのだろう。
「(こわく、ないよ)」
そう呟いて、母の胸に顔を埋めているくせに何を言っているのだろう、と自分で自分を笑った。
「大丈夫よ、夢は夢でしかないのだから。ほら、顔を洗ってきなさい」
「(なんで、洗ってないって知ってるの?)」
「母は何でもお見通しなのよ」
無茶苦茶な理由だけど、合っているからそうなのだろう。子供のように頬を膨らませた私は、ふう、とそれをすぐに吐いて、リビングを出た。
その姿を見送る母は、「よだれがついていたからよ」と笑っていた。
外は雨が降っていた。ビニール傘を差していた私は、その透明越しに空を見上げながら、重いため息をこぼした。
秋の雨は嫌いだ。秋は私が一番好きな季節だけれど、雨が降る秋の日は嫌い。他の季節に降るものと比べて、とても長く感じるから。
どこまでも続く濃い灰色は、何もかも濡らすまでいつまでも降り続くことを表しているようだった。
けれど、その先で。私と同じビニール傘を差しながら、同じように淀んだ空を見上げている彼の姿を見つけた私は、彼の元へと歩き出した。
彼は私が声を掛けるよりも先に後ろを振り返ると、雨上がりの花のように微笑む。
「おはよう、日比谷さん」
「(おはよう、来栖くん)」
彼——来栖くんは私に挨拶をすると、止めていた時間を再開するように歩き始めた。その隣を歩く私は、やけにうるさく鳴っている心臓に向かって、静まれ、と叫んだ。
静まってくれなければ、来栖くんに聞こえてしまいそうだからだ。
「(今日は、雨ですね)」
誤魔化すように吐いた言葉に、来栖くんはぱちぱちと瞠目すると、ぷっと吹き出した。
「どうしたの、急に敬語なんて」
「(だって、雨が降っているから)」
「……ごめん、すごく意味が分からない」
隣で雨傘を傾かせている来栖くんが、雨が嫌いなんだねと呟く。読まれてしまったのかと思った私は、秋の長雨が嫌いだということを告げた。
「秋の雨が嫌い、か」
来栖くんは残念そうに言うと、降り止む気配を一向に見せてくれない秋霖の音に耳を傾けているのか、惜しげもなく水滴を落としている木々を見つめていた。その横顔は嬉々として輝いている。
雨が好きなのかな、と思った。
「……うん、好きだよ」
さらに濡れていく緑を見上げていた瞳が、私へと映させた。雨雲と同じ色でもある瞳に、ぽかんと口を開けている私が映っている。
私はしんみりと耳の奥にしみ込む雨の音を聞きながら、そっか、と唇を動かした。
雨を好きにはなれそうにないけれど、雨が傘に弾かれるやさしい音は好きだ。
「ちょっとちょっと!まなりっ!」
「(わっ…?!)」
教室に入った瞬間、私は猪のように突進してきた由香に抱き着かれ、前のめりになった。一体何の騒ぎだろうと思って、恐る恐る後ろを振り返る。
「(ゆ、由香? どうしたの?)」
由香は興奮しているようだ。振り返った瞬間に私の腕を掴むと、隣にある空き教室へと私を連れて入った。無論、ドアをきっちりと閉めて。
「さーて、話を聞かせてもらおうかなあ?」
「(は、話…?)」
由香は不気味な微笑みを浮かべると、机の上に座り腕を組んだ。謎の体勢だ。嫌な予感がする。
「とぼけるんじゃないよ? 今朝、来栖と歩いてたでしょ」
今朝、それは今さっきのことだ。確かに来栖くんと歩いていたけれど、それがどうしたと言うのか。
由香は人差し指で私の鼻をツン、とつつくと、にっこりと笑った。
「驚いたんだよ。私以外の奴には誰一人として関わろうとしなかった愛理が、楽しそうにしてるんだもん。しかも、相手はあの来栖だからさ」
人生で一番の驚きかも、と由香は大袈裟なことを言った。
「で、付き合ってるの?」
予想通り、そう尋ねてきた由香に、私は首を横に振った。何故なのかは分からないけど、かなり激しく。だから、由香に止められた時は頭がクラクラした。
「なんだ、付き合ってないのか」
「(付き合って、ないよ)」
そう囁いた私の声は、今日も変わらず無音だ。けれど六年以上の付き合いである由香は、短い言葉ならばはっきりと唇を動かせば、それとなく読み取ってくれる。
「そっか。なんか、お似合いだったのにな」
残念そうに呟かれた言葉の意味を、私はすぐに理解することができなかった。
——お似合い。おにあいって? と、何十秒もの時をかけて考え込んだが、それでもよく理解出来なくて、辞書に書かれていそうな意味を頭の片隅から引っ張り出す。そして、言葉を失った。
だって、お似合いという言葉は、似合うこと。釣り合いがとれていることだ。その言葉が私と来栖くんに当てはまるとは思えない。
「(そんなこと、ないよ。…ぜったいに)」
「えー、聞こえない」
噓だ、今のは聞こえていたはずだ。だって、私がよく唇に乗せている言葉だもの。
ケラケラと笑いながら「教室に戻ろう」と勝手なことばかり言う由香の背中に、ゆかのばか、いじわる、と音なき言葉を投げた。空き教室を出る時には、でも大好き、と叫んだ。
私は優しい意地悪をする彼女のことが大好きなのだ。