星彩(2)
外はとても静かだった。時折風が吹く音と、私たちが足を進める音が鳴るだけで、それ以外は何も存在していないように息づいている。
秋風が、さあっと落ち葉を掃いた。それと一緒に私の心に掛かる靄のようなものも連れていって、と私は願って、数歩先を歩く彼の背中を見つめた。
やっぱり、せつない。彼に背を向けられると、置いて行かれた子供のような気持ちになる。
置いて行かれたのは自分の方だと来栖くんは言っていたけれど、それは一体どういう意味なのだろうか。
「ねぇ、日比谷さん」
来栖くんは私の思考回路を遮断するように声を放つと、ゆっくりと後ろを向いた。そうした時に吹き込んだ風が、少し長めの前髪を揺らして、隠れていた目をあらわにする。
夕陽を受けて煌いたそれは、変わらず灰色を帯びていた。
「(なあに、くるすくん)」
私は灰色を見つめたまま、そう口遊んだ。
来栖くんはまるで秋に溶けるように目を伏せると、大きく息を吸い込んで、私の目を真っ直ぐに見る。その真摯な眼差しから、彼はこれから私が知りたがっていることを明かそうとしているのだと感じ取れた。
「日比谷さん」
初めて会った時から、私の声なき声に言葉を返してくれた声が震えている。私をときめかせた微笑が飾られていた顔が、秋のような寂しげな笑みを浮かべた。
彼は閉ざしていた瞼をゆっくりと持ち上げると、こう告げた。
「この秋を繰り返している。そう言ったら、信じる?」
それは、あまりにも信じがたい告白だった。
(……え?)
この秋を、繰り返している。それはどういう意味だろうか。言葉の通りならば、今日この日を迎えることが初めてではないということ?
私にとっての今日は、彼にとっては何度目かの“ある日”であるということ? そんな、あり得ないことがあるのだろうか。
仮にそれが本当のことだとしたら、一体何のために、そんなことをしているのだろう。
そんなこと、あるわけがない。そう否定している私も、心のどこかにいたけれど、それが本当のことである証拠を思い出した私は、はっと顔を上げた。
(……だから、初めて会った気がしなかったのかな。私が好きなものも知っていたのかな)
そう胸の内で問ういたことに返事をするように、彼は一度、頷いた。
ああ、まただ。また、何も言っていないのに、彼は聞こえていたように返事をする。あの時は気のせいかと思っていたけれど、もう、気のせいなんかじゃない。
彼は、たぶん——……。
「あなたが思う通り、俺は人の気持ちが読める」
やっぱり、そうだったんだ。そう素直に受け入れている自分がいることに、驚きはしなかった。かと言って、そうなんだねと返事をすることもできなかった。
ただ黙って彼の告白を聞くことしか、私には出来ない。
「……俺は、普通の人間であって、普通の人間じゃない」
まるでドラマや映画の中にだけ存在している世界を語るように、彼は言葉を選びながら話していった。
人にはない力を持っているから、近くにいるだけで声が聞こえるのだという。その力で、階段から落ちた私の元へと瞬時に移動し、受け止めることも出来た、と。
「……俺は、超能力者なんだ」
自分に言い聞かせるように放たれたその声は、いつになく弱くて、儚かった。
——超能力者。それは、通常の人間では、成しえないことをする人のことだ。以前テレビで放送されていた特集番組で、そう聞いたことがある。
来栖くんが、超能力者。だから普通ではあり得ないことが、私の身の回りで起こっていたんだ。
そう理解した時、私の前に立っていたはずの彼は消え、いつの間にか後ろに居た。見間違えかと思っていた薄い光を纏いながら、私を見つめている。
「……だから、今のように瞬時に場所を移動することもできるし、人の目を見れば、その人の身に最近起きたことも見える。人の持ち物から思い出を知ることも出来るし、物に触れなくても動かすことだってできる」
そう吐き出した後、来栖くんは私の前に戻った。言っていた通りに、一瞬で姿を消すと、何もなかった場所に現れる。その力を改めて目の前にした私は、ただ、すごいと思ってしまった。まるで魔法使いのようだと思ってしまったのだ。
「気持ち悪いと、思わないの?」
自嘲気味に言った来栖くんに、私は間髪入れずに「そんなふうには、思えない」と口を動かしていた。
もう、唇は震えていなかった。
「(くるすくん)」
呟いて、変わらず音のないそれに、泣きそうになる。でもそれでも、それが聞こえている来栖くんは、先週のように、昨日のように、頷いてくれる。
誰にも届かなかった私の声は、この世界でただひとり、彼だけに聞こえているんだ。
「(わたしに、笑いかけてくれたあなたを、そんなふうには思わないよ)」
「っ……、」
どうして私にはないんだろうって泣くのはもうやめよう。どうして普通じゃないんだろうって、ないものねだりをするのも、もうやめよう。みんなが持っているものを持っていなくたって、普通じゃなくたって、私は私だ。
日比谷愛理という、今を生きている一人の人間だ。
「……日比谷さん」
たとえ声が出なくたって、この世界に文字がある限り伝えることができるじゃないか。私のような存在と想いを伝えあうための方法は、とうの昔に生まれているじゃないか。私の声を聞いてくれた人が、今目の前にいるじゃないか。
それだけで、私はとてもしあわせなのだ。そのことに今まで気づけなかった私は、なんて愚かなのだろう。
「今この瞬間も、俺はあなたが何を考えているのか知っているのに。気持ち悪いと、思わないの?」
もう一度確かめるようにつぶやかれた声は、とても弱弱しい。その弱さすら纏えずに消えてしまう私の声は、もっともっと弱い。
「(思わないよ。むしろ、声に出せない言葉を知ってくれるのは、うれしい)」
私は、馬鹿だから。そんなふうに思うことしかできないし、知って得をすることを考えることもない。
今思えば、彼は初めて会ったあの時から、秘密の欠片を落としていた気がする。それを一つも拾うことができずに、勝手に胸をときめかせていた私は、やっぱり馬鹿だ。
彼は私の声に気づいてくれたのに、私は彼の秘密に気づいてあげられなかった。
ごめんね、来栖くん。私はそう心の中で呟いた。
「……どうして謝るの。悪いのは俺だよ」
私の心の中を見事に読み解いた彼が、驚いたようにそう言った。
「(そう言わなきゃ、いけない気がしたの)」
そうぱくぱくと口を動かした私は、言い終えた後ににっこりと笑った。
彼はそっか、と返すと、緩々と口元を綻ばせた。
——近くにいるだけで、私の声が聞こえる。それはどれくらいの距離から可能で、どれだけ離れたら聞こえないのだろう。
聞かせたくないことを考えているわけではない。ただ、この先彼に聞かれたくないことを考えてしまいそうな自分がいる。
「……帰ろう。夜がやってくる前に」
そう囁いた来栖くんの声は、春のように柔らかかった。
ねえ、来栖くん。あなたは私の声が聞こえると言っていたけれど、あなたは私と話す時、いつも私の口元をじっと見つめている。見なくても聞こえるのに、そうする理由があるのだろうか。
馬鹿な私は、そう尋ねるのを忘れていた。
この秋を繰り返す理由も、聞き忘れてしまった。