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星彩(1)

 ——これは、もしもの話だ。


 もしも、目の前にいる他人が考えていることや思っていることが聞こえたとしたら、人はどうするのだろう。


 そんなことがあるはずがない、と馬鹿にされそうなことを考えてしまったのは、私がそうとしか考えられない人間に出逢ってしまったからだ。


 彼は、音を持たない声を聞き、知るはずがないことを知り得ることができる、と思う。定かでないのは、それが本当のことだと彼の口から聞いていないからだ。


 だから、まだ疑惑にすぎない。それが真実かどうかを確かめるために、私は走った。


 私は、彼のことが知りたいのだ。


「——……どうして、追いかけてきたの」


 下に向かって落ちていった私の体は、先を歩いていたはずの彼の腕の中にいた。その背を追っていた私と彼の間には、教室でいうと教卓から一番後ろの席ほどの距離があったはずなのに、彼は目の前にいる。


 どんな魔法を使ったの、来栖くん。そう唱えようとしたのだけれど、唇が震えて言葉を乗せられなかった。


「どうして俺を追いかけてきたの、日比谷さん」


 まるで春の温度を閉じ込めたような声音に、心臓が激しく動かされる。このまま乱されていてはだめだ。そう自分に言い聞かせたけれど、日比谷さん、と重ねるように放たれた声に、私の心臓は負けてしまった。


「(……くるす、くん)」


 彼は返事の代わりに頷くと、私の体を抱き起こした。そして自分も立ち上がると、床に投げ出されている二つの鞄を持ち、私に手を差し出す。


 その手に自分の手を重ねれば、細い見た目からは想像もつかない強い力に引っ張り上げられる。その時私は、彼の身体から湧き出ている、透けている何かを目にした。


 それは今日、校庭に彼が現れた時に見たものと同じだった。言葉で表すならば、色が付いた光のようなもの。それが彼の身体を包んでいる。


 彼は無言で私の手に鞄を握らせると、一度だけ私を見た。その瞳は何かを言いたそうに揺れていたけれど、彼の唇が声を奏でることはなかった。


 無駄なパーツが一つもない顔に、何度も私の胸をときめかせた柔い笑顔が飾られる。いつもより控えめなそれは、私の胸を締め付けるのにじゅうぶん過ぎた。


「(くるすくん)」


 吐き出した声なき声に、来栖くんは返事をしてはくれない。そっと笑顔を剥がすと、今度は寂しそうな微笑を浮かべて、私の頭を撫でる。相も変わらず冷たい温度が、ここまで追ってきた私への返事のような気がした。


 来栖くんがどこかに消えてしまいそうだ。ただ漠然とそう思った私は、無意識に来栖くんのシャツを掴んで、首を横に振っていた。


「(やだ、いかないで。置いていかないで)」


 そうする素振りを彼に見せられたわけではないのに、そんな未来を知っていたわけでもないのに、彼を引き留めるための言葉が勝手に溢れ出て、喉元を越えてしまった。それを見た彼の目が、驚いたように大きくなる。


「……どこにも行かないよ、日比谷さん」


 そう呟かれた彼の声は、深い悲しみを抱えているように聞こえた。


 私の頭部へと添えられていた手はゆっくりと下へ降りていくと、背中に差し掛かったところで止まり、そっと私を抱き寄せた。そのぬくもりは、冷たい手を持つ彼からは想像もつかないくらいにあたたかくて、優しいものだった。


 彼のことを、冷たい人間だと囁いたのは誰だろう。彼の声、彼の温度、彼の口から放たれる声がどれほど柔いものか知らないくせに、有りもしないことを吐いて、学校の中を歩かせたのは誰だろう。


「……置いて行かれたのは、俺の方だ」


 そう弱弱しい声を押し出して、そっと私を解き放った彼のことは、私もよく知らない。


「(くるすく、)」


「おいで、日比谷さん」


 来栖くんは私の手を取ると、緩く握った。いつでも逃げていいのだと言われているような強さに、肺が苦しくなる。


 このままではだめだ。これではいつかの日のようになってしまう。


 私は彼に確かめたいことがあるから、ここまで追ってきたのだ。心拍数を上げにきたわけではない。何一つ果たせないまま曖昧にされるなんて嫌だ。


「(来栖くん)」


 彼の名を唇に乗せた私は、急に足を止めた。その瞬間にほどかれたのは、私の右手と来栖くんの左手だ。


 彼は空っぽになった左手を一瞥すると、真剣な表情で私を見据えた。


「……俺の何を、確かめたいの?」


 ああ、まただ。


「それを聞きたくて、俺を追いかけてきた。……そうだろう?」


 また、彼は知っている。


「あなたが知りたいこと、話すよ」


 やっぱり、そうだったんだね。そう心の中で呟いた私に返事をするかのように、彼は美しい微笑を浮かべる。


 そして、あの夕暮れの日のように、私の目線に合わせて少し屈むと、こう囁いた。


 ——だから、もう泣かないでほしい、と。


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