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仄明かり(5)

 午後四時半を告げる鐘が鳴り響く。夜の訪れが早くなってきている今、教室には夕陽が差し込んでいて、影を作っていた。


 あれから、私は来栖くんに手を引かれるがままに、教室に戻ってきた。開けっ放しにしてきてしまった教材室の施錠をしに行きたいと言ったら、来栖くんは「自分がやってくるよ」と言い、私をここに残して行ってしまった。


 残された私は、夕暮れを告げる黒い鳥が羽ばたいている、茜色の空を見つめている。刻々と色を濃くしていく夕焼けに引きずられるように、私の心も染まってしまいそうだ。


 なぜだろう。街の上に広がっている朱を含んだ紫陽花色の夕空を見ていると、心臓が痛くなる。夕暮れが好きなはずなのに、苦しくなるのだ。その理由を捜そうと思考を巡らせたら、教室のドアが開いた。


「遅くなってごめん、日比谷さん。……はい、お水」


 そこから入ってきたのは来栖くんだ。夕陽を受けてほんのり朱色を被っている顔に笑みを飾ると、私にミネラルウォーターが入ったペットボトルを差し出してきた。


「(ありがとう)」


「どういたしまして」


 それを受け取った私は、開けてはいけない場所を開けるような気持ちになりながら、ボトルのキャップを開けた。そっと喉に流し込めば、無味の液体が強張っていた身体に染み渡る。


 来栖くんは私の隣りに立つと、同じように蓋を開けて、お水を喉に流し込んでいた。その姿さえ様になるのだから、羨ましくてしょうがない。


 声が出なければ容姿も平凡な私は、良いところすら一つも持っていない、人に迷惑を掛けるだけの存在なのだと改めて思った。


「…本当に、なにもされてない?」


「(うん、大丈夫だよ)」


「そっか」


 窓辺から吹き込む秋の風に漂ってきたのは、来栖くんの柔らかな香り。それに鼻腔を擽られ、また一つ、心臓が苦しくなった。


 ほどなくして、風がそよぐ音だけが聞こえる室内に、彼がペットボトルを置く音が響いた。二、三度波打つように揺れた水は、誰の心を代弁しているのか。


「…さっきの、平野さんが言ってたことだけど」


 言葉を選ぶようにゆっくりと吐き出された声が、私の鼓膜を揺らす。その時初めて、私はあの女の子の名前が“平野”さんであることを知り、他人と関わることを避けてきた私を叱りたくなった。


「(いいの。本当のことだから)」


「本当なんかじゃ……」


「(ほんとうだよ。私は、声の障害を持ってる。だから、障がい者なの)」


 私の口元を見つめていた瞳が、困ったとでも言うかのように揺れた。それを見て、いっそ彼を困らせてしまおうかと酔狂なことを考えている私がいる。


 困って、呆れて、私を置いて、去ってしまえばいい。そのままもう二度と私に関わらなくなってしまえばいい。そうすれば、もう迷惑を掛けずに済むから。


 ——でも。


「(私のような人は、ここにいるべきじゃない。居てはいけないって、わかってる)」


 こころのどこかで、もう少しだけ隣りにいて欲しいと願ってしまう私もいる。だって、私の声を聞いてくれるのは、彼だけだから。


 今まで誰にも言えなかった私の想いを聞いてほしいと、浅ましいことを思っている私がいることにも気づいて、消えてしまいたくなった。


「(わかってるけど、ここに居たいの。お父さんとお母さんが、私を普通の子と同じように生きさせてゆきたいって、想ってくれてるから)」


「…日比谷さんは、どうなの」


 来栖くんの顔が上がる。緑色の床を見つめていた瞳が、再び私を映した。


「日比谷さんは、無理をしてないの?」


 私の口元を見ていなかったというのに、まるで聞こえていたように声を放ったことに私が気付いたのは、もっと後だった。どうして彼女が私にぶつけた言葉を、来栖くんは知っているのか。そう疑問に思ったのも、もっともっと後だった。


「(私は、無理なんてしてないよ。むしろ、そうしているのは、私の周りにいる人たちだよ。無理をして、障がい者の私と同じ教室に——)」


「それは違う」


 溜めていたものを放出するように吐き出した私の言葉を、来栖くんは静かに否定した。


「それは違うよ、日比谷さん」


 何が、違うというのだろう。


「…あなたは、優しすぎる」


 死ぬまで人様に迷惑を掛けることしかできない私のどこが、優しいのだろう。


「そんなふうに、他人に気を遣ってばかりだ」


 私がいつ、他人に気を遣ったというのだ。彼は私の何を見て、何を知って、そんなふうに言うのだ。


 来栖くんは、今日もよく分からない。何を考えているのかさっぱり分からない。何を思って私にそんなことを言うのかも、まるで分からない。


 私の世界は、分からないことばかりで溢れている。


 私は開きかけていた唇を閉ざした。私の声を拾おうとしている視線に、鼓動がおかしくなってしまいそうだったからだ。それを見た来栖くんは、何を後悔したのか、申し訳なさそうに眉尻を下げた。


「……ごめん、偉そうに。でも、これだけは覚えておいてほしい」


 覚えておいてほしいことって、何なの。そんなことよりも、来栖くんのことが知りたいよ。


 そう、この先ずっと云えないであろう言葉を、胸の内で吐いたとき。


「——俺のことは、分からないままでいいよ。永遠に、知ろうとしなくていい」


 唇に乗せてすらいない言葉に、声に、来栖くんが返事をした。それは今初めて起きた現象ではないのに、まるで初めてのことのように、彼の“不思議”にハッと気がついた私は、彼の名前を叫んだ。


「(くるすく、)」


「俺、帰るね。……暗くなる前に帰るんだよ」


 来栖くんは私を振り切るように背中を向けると、自分の席に置いてあった鞄の持ち手を掴み、教室を出ていく。その背中は、見ていてやっぱりせつなくて、どこかで目にしたことがあるような気がした。


「(来栖くんっ!)」


 今日の彼は、私を振り返らなかった。私が気付いてしまったことを否定するように、そのまま行ってしまった。


 私は迷うことなく、その後を追うために急いで教室を出た。無人の廊下を走り抜け、昇降口への近道である非常階段を駆け下りる。


(待って、来栖くんっ…!)


 ——馬鹿だ、私。どうして気がつかなかったんだろう。どうして気づけなかったんだろう。



『…なら、よかった』


 はじまりは、彼と初めて言葉を交わした、夕暮れの帰路。彼は私の口元ではなく空を見つめていたのに、私の声なき声に言葉を返していた。


 次の日もそうだ。私が由香から来栖くんの噂を聞いていた時、彼は教室にいなかった。なのに、彼は私が噂を聞いたことを知っていた。その帰り道も、今朝もそうだ。彼は時折、私が唇に乗せていないことを、まるで見えていたかのように知っている。


 私が今日、人気(ひとけ)のない場所で、平野さんと居たことも、ぶつけられた言葉も知っていた。


 彼がまるで魔法使いのような人であることは、今までにあった不思議なことを繋ぎ合わせればわかることだったのに。


 急いで階段を駆け下りた私は、ちょうど角を曲がろうとしている彼の姿を見つけ、その名を叫ぼうと口を開いた。

 その、瞬間。


「(わっ…!?)」


 急ぐあまりに階段を踏み外した私の体は、大きく前に傾いていった。


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