仄明かり(4)
「…あなたは今、彼女に何をした? これから彼女に何をするつもりだった?」
放たれた声は、とても冷たかった。その場に居るだけの私でさえ、思わず息を飲んでしまうほどのものだ。そっと彼女の様子を伺うように見れば、彼女はびくりと肩を震わせていた。
「わ、私はただっ…」
「あなたは人を傷つけて、嘘をついて、この先どうしたいんだ。自分を汚して楽しいの?」
「ち、ちがっ」
来栖くんはここで何があったのか、私が何を言われたのか知っているようだった。何で知っているの、なんて聞けなかった。なぜなら、刹那、垣間見えた時の瞳が、強い悲しみを含んでいるように揺れていたから。
どうして自分のことのように、悲しい顔をしているんだろう。これは私の問題なのに。
どうしてここに、来栖くんは来たのだろう。
「答えてよ」
責めるような強い言い方に、彼女は潤ませていた瞳から雫を落とした。それはとても綺麗なものであるはずなのに、私の目にはただの水に映った。
それはきっと、私が醜いからだ。“障がい者”だと差別をする発言をされ、挙句の果てに尻餅をつかされた私は、こうして現れた来栖くんに彼女が責められている姿を見て、助けてあげようとも思わなかった。むしろ、自業自得なのだと思ってしまっている。
それに、目の前にいる彼が、まるで自分のことのように悲しい顔をして、冷たい言葉を吐いているから。その姿に胸が痛くなった私は、泣き出してしまった彼女をそっちのけで、来栖くんのシャツの裾を強く引いた。
「(来栖くん、ちょっと押されただけだから、大丈夫だよ。怪我してないよ。だから——)」
けれど、来栖くんは。
「勝手なことを言って、人を傷つけた人間が、どうして泣いているんだよ!?」
感情を燃やすように怒りを露わにして、彼女を責め立てた。
どうして彼がこんな風に怒るのか、私は理解できなかった。自分のことのように怒る理由が見つからなかった。
だって、来栖くんは何の関係もないじゃない。なのに、突然現れて、声を荒げているんだもの。
私は馬鹿だから、彼女が来栖くんを好いていることにしか気づけない。
「(くるすくん)」
優しい彼の名前を呟いた自分の声は今日も無音で、相変わらず音にはならなかった。でもそれでも、口に出すしかなかった。
だって、言わなきゃ伝わらないじゃない。それに、来栖くんならきっと、気づいてくれる。
「(くるすくんっ…!)」
「っ……、」
どうして来栖くんには淡い期待を抱けるのかわからない。でも、彼はいつも私の声に気づいて、振り返ってくれた。その理由が特別なものであると、私は薄々気づき始めている。
「……日比谷さん」
——…多分、彼は。
「(もう、いいよ)」
呟いて、泣いてしまいそうになった。けれど、泣くわけにはいかなかった。そうしたら、彼が悲しむような気がしたから。
私は左手の甲を上に向け、 右手の手刀で左手の甲を1回ポンっと叩いて、同時に頭を下げた。
——ありがとう。そう手を動かした私の手元を見たのか、来栖くんが複雑そうな顔をする。
「…お礼を言われるようなこと、俺はしてないよ」
来栖くんは自分が勝手にしたことだから、と囁く。確かにそうかもしれないけれど、障がい者だと蔑まれた私を庇い立って、怒ってくれた。そんなふうに他人に守られたのは初めてのことだったから、ありがとうと伝えるのは当然だ。
「 」
ありがとう。そう口にした言葉に、声はない。
私には、彼に囁けるような声なんて一つもないから、こうして叫ぶたびに勝手に泣きたくなってしまう。
「日比谷さん」
そんな私を見透かしたのか、来栖くんの手が私の頬に添えられる。その手はやっぱり冷たかった。
「……ごめんね、来るのが遅くなって」
いつの間にか、彼女はこの場からいなくなっていた。泣いていた彼女を気にも留めなかった私は、やっぱり普通じゃないのだと思う。
「もう大丈夫だよ。怖い思いをさせてしまって、ごめんね」
来栖くんは私の目線に合わせて少し屈むと、灰色の瞳に私を映して、力なく微笑んだ。
遅くなんかないよ。来なければならない理由なんてないよ、と言いたかったのだけれど、私の唇は震えていて、言葉を乗せることができなかった。
悲しそうな微笑でさえ美しい彼に、胸を打たれることしかできなかった。