仄明かり(3)
「ねえ、日比谷愛理さん」
高いソプラノ声が、私の名前を呼んだ。由香でない別の女の子の知り合いなんて、私にはひとりもいない。一体誰なのだろう、と背後を振り返れば、そこには見たことがあるような、ないような女の子が立っていた。
「(あなたは?)」
「私、あなたに聞きたいことがあるの」
ぷっくりとした艶やかな唇が、私にはない音を奏でる。それが羨ましくて、同時に恨めしくも思ってしまって、私はまた自分のことが嫌いになった。
彼女はキャラメル色の髪を指先で一度弄ると、私へと近づいてきた。
「来栖くんとは、どういう関係?」
どうして急にそんなことを尋ねてくるのだろう。その理由を察せないのは、やはり普通でないからだろうか。
(私と来栖くんの、関係?)
それは言うまでもなく、クラスメイトではないのか。
相も変わらず何も言えない私に嫌気がさしたのか、彼女は苛立ちを露わにすると、畳みかけるように声を放っていった。
「昨日、二人で帰ってたわよね。私、二人がお店に入るところも見たの」
ああ、見られていたのか。私は見られて困るものではないと思っているけれど、来栖くんがどう思っているのかわからないから、また何も言えなかった。
「教えてくれない?」
彼女の顔が歪む。無意識に後退っている私を追い詰めるように、彼女は私との距離を縮めていった。
ああ、なんだか苦しい。上手く言えないけれど、負の感情を向けられていることが苦しいのだ。縛られているような心持ちになる。
そもそも彼女は何を教えて欲しいのだろう。一緒に帰った理由だろうか。寄り道をしたことだろうか。それとも、電車で手話で会話をしたことだろうか。
何が知りたいのか明確に言ってくれなければ、私も何を言ったらいいのかわからない。彼女がはっきり言ったところで、今の私は携帯電話を持っていないから、何を言っても伝わらないのだろうけれど。
「声が出ないから、かわいそうなんですって気を引いてるの?」
しびれを切らしたのか、トン、と肩を押された。それだけでいとも簡単に後ろに尻餅をついた私は、なんて非力な存在なのだろう。
「(そんなこと、わたしは、してな——)」
「じゃあどうして、どんな女の子にも興味を示さない来栖くんが、あなただけには笑いかけるのよ!?」
私が必死に叫んだ声は、彼女のソプラノに握りつぶされたように消されてしまった。その時私は、この世界の冷たさを感じた。由香や来栖くんのような温かい人の優しさに触れていた私は、ある重要なことを忘れていたのだ。
世界は、彼女のような人間であふれていて、由香や来栖くんのような存在は稀であるということに。
(…由香、来栖くん)
——あなたとお話がしたい私は、どうしたらいい? そう言って、私に紙とペンを渡して、笑いかけてくれた由香と出逢った時のことを思い出して、胸の奥がツンと痛んだ。
——何一つ音を奏でられないその人の“声”が聞きたくて。 そう言っていた来栖くんの美しい笑顔が頭の中で描かれて、心がせつなく震えた。
ねえ、神様。今でなくていいから、いつか、ふたりのように、優しい人であふれる世界になってほしい。そうしたら、私のような異質な人間が、たくさん苦しまずに済むから。
そんなこと、何年、何十年が経っても、叶わないってことくらいわかっているけれど。
「何か言いなさいよ! 障がい者のくせに、普通の高校に入った邪魔者が——」
彼女が私に向かって刃物のような言葉を投げ、手を振り上げた時、それは起こった。
突然、空気がどっぷりと重くなった。梅雨の時に感じられるような、湿り気のある空気にも似ているのだが、今感じたその重さは、何かを含んでいるというより、何かを生んでいるような感じだった。
今、何が起きているのだろう。そう考え始めた時にはもう、目の前が真っ白になった。いや、目の前だけが白く発色したのだ。
「(……え)」
それは、ひどくゆっくりとした映像のように、私の目に映った。
白い輝きから、すうっと人影が現れる。それは私とたちと同じように顔があり、胴体があり、足がある人間だった。
突然に現れた人の髪が、柔らかに揺れる。風なんて吹いていないのに、揺れていた。今の現象の所為なのかはわからないけれど、白い肌が透明を纏っているように透けて見える。
夢を見ているのではないかと思った私は、夢中になって目を擦った。噓だ、これは夢だ、と自分に言い聞かせるように。
けれど、夢なんかじゃなかった。そうではなく現実であることが、証明されてしまった。
「——一体どういうつもりなのか、教えてほしい」
聞き知った柔らかな声が、らしからぬスピードで言葉を吐く。それは彼が怒っているからだ。柳眉を寄せて、彼女に鋭利な刃物のような視線を注いでいる。
(…くるす、くん?)
突然に現れた人は、来栖くんだった。いや、現れたというより、出てきたと言う方が相応しいかもしれない。
来栖くんは、私が知る来栖くんには似つかわしくない表情をしながら、彼女を冷たく見下ろしていた。