仄明かり(2)
時刻は午後四時前。放課後になった今、私は溢れんばかりの教材が入っている段ボールを運んでいた。
これは四限目の英語の授業が終わった後に、英語の担当教師から頼まれた雑用だ。声が出ないせいで英会話のテストが受けられない私は、毎度テストの代わりに課題を提出しては、こうして雑用を引き受けている。
(お、重い……!)
しかしながら、つい文句をこぼしてしまうほどに、今日の荷物は今までで一番重かった。目線を越えそうなラインまで積み上がっている荷物の天辺と、目の先の景色を交互に見ながら、目的地へと急ぐ。
視界の端にある窓から、グラウンドの上で青い春を満喫している生徒たちの姿が見えた。それを見た途端、羨ましいという思いが胸の内から湧き上がってくる。
部活動に入りたいわけではない。運動をしたいわけでもなければ、グラウンドに行きたいというわけでもないのだ。ただ、私もあんなふうにたくさんの同い年の子や、志を同じくする人たちと駆けてみたかった。普通の子のように、みんなの輪の中に入りたかった。
でも、そうすることは許されない。声の障がいを持っている私は、普通の人の生活を邪魔してはいけない存在だから。
それは誰かに言われたわけではないけれど、春に自己紹介をするたびに、ひしひしとそう感じているのだ。
(早く、終わらせよう)
そうひとりで意気込んだ私は、少しだけ歩くスピードを上げた。
目的地である教材室に到着した時、時計の針は四時五分前を指していた。早く教室に戻らなければ、由香が心配してしまう。
私は埃まみれの戸棚の中に、来年まで使わないらしい教材を入れながら、大きなため息を吐いた。
ため息なんて、どうしたんだろう。私は今、嫌な気持ちなんて一つも抱いていないはずなのに。
あの男の子と関わるようになってから、不確かな言の葉が湧いたように出てくる。それが嫌なわけではないけれど、曇った空のような気持ちになるのだ。
どうしてなんだろう。そう尋ねたら、答えをくれるのかな。
(……よし、ぜんぶ終わった)
思ったよりもかなり時間がかかってしまったけれど、段ボールの中身を片付け終わった。大きく伸びをして、スカートに付着した埃を落とす。
そうして、ゆっくりと顔を上げた先。ふいに動かした視線の先で、ある違和感を覚えた私は、それに誘われるように窓辺へと足を進めた。
視線の先にあるのは、校庭の隅にある一本の樹だ。春になると薄桃色の花を咲かせるその樹の枝に、白くて小さい何かがいる。
それが生き物であることに気づいた瞬間、私は衝動のままに力強く地を蹴って駆け出した。
教材室のドアを開けっ放しにし、施錠もせずに、私は一心不乱に廊下を駆けた。昇降口に寄る時間も惜しかった私は、上履きのまま校庭に出る。
そして、さきほど見た樹の前に到着した私は、目線の少し上にある枝に向かってそっと両手を差し出した。
「(おいで)」
そこには、小さな白い猫がいる。降りれないのか、弱弱しい鳴き声を上げながら、小刻みに震えていた。
教材室の窓からこの存在を見つけた私は、その様子がおかしいことに気付き、どうしても放っておけなくて、ここに走ってきたのだ。
「(こっちに、おいで)」
そうパクパクと口を動かすも、この声が猫に伝わるはずがない。それを承知で、私は何度も唇を動かしながら、猫に手を近づけた。
何度かそう繰り返しているうちに、猫は観念したような鳴き声を上げると、私の手に擦り寄った。
私は背伸びをして、そっと猫を抱き上げた。見たところ怪我はなさそうだ。首輪をしているし毛並みも綺麗だから、きっと飼い猫だろう。
「(もう、だいじょうぶだよ)」
聞こえるはずのない声でそう言い放てば、猫は返事をするように鳴いた。吸い込まれそうなくらいに綺麗なダークグレーの瞳に、私の顔が映っている。
私は住宅街がある方角に出ることができる小さな穴の前に猫を下ろし、気をつけて帰るんだよ、と口を動かした。
猫はにゃあ、と鳴くと、穴の向こうへと姿を消した。
よかった。これであの子は、自分の家に帰ることができる。あの時私が気づいて助けなかったとしても、いつか別の誰かが気づいて、救いの手を差し伸べただろう。けれど、そのいつかが遅かったら、あの子は大変な目に遭っていたかもしれない。
かもしれない、という理由で行動する私は馬鹿なのかもしれない。でも、世界はいつだって不確かなことであふれているのだ。
そう、いつの日か、彼が教えてくれたから。
(────彼?)
唐突に浮かんだものが何なのかを考え出した時、背後から、何者かの足音が聞こえた。