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仄明かり(1)

 昨日で長月が終わり、今日から神無月へと変わった。秋の色に染まりつつある校庭の緑を見つめていた私は、担任が乱暴に教室のドアを開ける音を聞いて、教卓へと目を動かした。


 変わったのは、月だけではない。私を取り巻く環境も、少しばかり変化している。


「——おはよう、日比谷さん」


 柔らかな声が、私の名前を呼ぶ。その声で顔を上げれば、予想通りの人が居た。珍しく時間ギリギリに登校してきた彼こそ、私の身の回りの変化の大部分を占めている。


「(おはよう、来栖くん)」


 彼だけに聞こえる声で挨拶を返せば、ふんわりと笑い返された。同じことをやりとりした経験があるような、時間が二重写しになったような既視感がわいてくる。


 彼は腕時計を見ると、ほっとしたように息を吐いて、自分の席に腰を下ろした。そこは私の左隣だ。昨日の席替えで私の左の席になった来栖くんは、ひと月の間、教室で一番の特等席である、窓側の一番後ろの席に座る権利をゲットしている。


 私は教材を鞄から出している来栖くんの横顔を眺めながら、いいなあ、と言った。そして、なぜか来栖くんが私の方を向いた。


「……今、何か言った?」


 言ってないと言えば嘘になる。かと言って頷いたら、私の声が聞こえていたということになる。どちらにしろ、来栖くんは私の方を向いているから、今の声なき声が聞こえていたということになるのだけれど。


「(言ってないよ)」


「うそだ。何か聞こえたよ」


 来栖くんは間髪入れずにそう答えると、子供のようなあどけない笑顔を浮かべ、一限目の教材を机の上に出した。

 何か聞こえたって、やっぱり彼はエスパーなのかな。


「(ええ。来栖くんの耳はすごい)」


「ははっ、うん。実は俺、超人的に耳がいいんだ」


「(ええ?)」


 美しい笑顔を浮かべながら、私の口元を見つめる来栖くんは、今日もよくわからない人だけれど、これだけは知っている。


「音がなくたって、空気中には存在しているから。だから聞こえるんだよ、なんて、かっこいいこと言ってみたい」


 彼はとても優しい人だ。幸せそうにしている人に、優しい微笑みを向ける人だから。


「(もう、どれが本当なの)」


「さあ、どれかな」


 嘘か本当かわからないことを言われ、曖昧にはぐらかされた私は、小さく頬を膨らませた。


 彼は不思議な人だ。初めて言葉を交わしてから、まだそう経っていないというのに、私の心を惹きつけてやまない。


 やはり噂はただの噂に過ぎなかったんだ。だって、こんなにも優しい人がズルをするなんてあり得ない。他人のために手話を学び、声を聞くために読唇術を身につけた人が、人として最低であるはずがない。異常に鋭い人だな、とは思うけれど、それは普通の人よりもその部分が特化しているだけだろう。


 ホームルーム開始を告げる鐘の音が、異質な会話をしていた私と来栖くんを離した。


私は「またあとでね」と精一杯の口パクで告げ、前を向いた。その時来栖くんはもう既に前を向いていたから、今の私の声は届いていなかったと思う。でも、伝わるはずもないと思いながらも、来栖くんには聞こえているんじゃないかと、心のどこかでそう思っている私がいた。


 担任は朝会でよく校長がやっているような咳払いを一つすると、御自慢のひげを撫でながら口を開いた。


「えー、実はだな。近頃、財布が盗まれたって報告が相次いでいる。いわゆる、盗難事件だな」


 そんなことが、いつの間に、とクラスメイトたちが驚いたような反応を返す。それはそうだ。そもそも事件なんて滅多に起きないと思っている吞気な人間であふれているのが、我が校の特徴なのだから。


 ここは首都である都会まで電車で四十分の距離にある、発展途上の街。山も畑もビルもある、のどかなところなのだ。


「学校側で対策を立てるまで、個々で貴重品の管理をしてくれ」


 担任はそう言うと、眉間に皺を寄せながら教室を出ていった。


 いつになく長い担任の話から解放された後、私の目の前の席に座って、頬杖をつきながらつまらなそうに話を聞いていた由香が、大きな欠伸をしながら振り返った。


「盗難事件ねぇ。至る所に防犯カメラを設置すれば、解決するんじゃないの」


 由香は心底興味がなさそうにそう言うと、長い脚を組んで上を見上げた。確かにそうだ。死角を作らないように防犯カメラを設置すれば、そう遠くないうちに今起こっている事件は終息することだろう。


 私は苦笑をしながら、由香と会話をする手段であるスマートフォンを取り出し、文字を打ち込んだ。


【公立高校だから、防犯カメラを設置するなんて難しいんじゃないかな】


 それを見た由香は今度は腕を組んで、考え込むポーズをする。それから数秒後に何か閃いたような声を上げると、不気味に微笑みながら、次の策を告げてきた。


「じゃあ警備員を配置するとか?…どちらにしろ金がかかるから、却下されそうだけど」


 自分で言って、自分で却下をする由香に、今日も私は笑わせられている。教室に金庫を設置するか、誰にも分からない場所に隠すか悩んでいる由香の姿を見て、私はまた笑った。


【難しいね。貴重品は持ち歩くようにしなきゃ】


「まったく、誰だよ犯人は。移動教室の時、持っていく荷物が増えるじゃないか」


 荷物が増えると言っても、お財布と携帯電話くらいだ。それくらい大したことがないし、移動教室の時には持ち歩いて当たり前の物なのではないだろうか。


【もしかして、由香は移動教室の時、いつも貴重品を置いて行ってたの?】


「当たり前」


 自信満々にそう返された私は、がっくりと肩を落とした。


 この件について、来栖くんはどう思っているのだろう。ふと気になった私は、ちらりと左へと目を動かして、来栖くんの様子を伺い見た。


 彼は難しそうな顔をしながら、窓の外の景色を見つめている。今日も変わらず冷たそうな手は、机の下でぎゅっと握られ、拳になっていた。


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