5.「学生」①
においが鼻につき、その場に倒れ込みそうになる。
久しく忘れていた馴染みのある悪臭はボクの中に苛立ちと煩わしさを生み、その手に空想の機関銃を握らせたのだった…。
キーン…コーン‥カーン‥コーン‥‥
「こんにちは。あなた、大丈夫?」
見上げると、ボクに手を差し伸べる女性がいた。
カロテノイド系の活性化葉緑体を注入した艶のある長い黄髪。
スカートから展開された領域と黒ソックスのモノクローム。
鐘の音と共に話しかけてきた眼鏡の彼女は、黒帯であった。
「‥‥ええ。大丈夫です」
「そう。それなら‥」
そうして彼女は足元の箱を持ち上げて、それをボクに差し出した。
「これ、運ぶのを手伝ってくれる?」
小道具や衣装の入った箱を受け取り、ボクは周囲に目を見やる。
中庭で笑い合う男女。
廊下の隅で寡黙に作業を続ける男。
教室で何やら討論しあう女たち。
そして、廊下の壁面には処かしこに「創立200周年記念 桔梗が丘学園祭」というホログラムが展開されていた。
「学園…」
行き交う人の群れを潜りながらボクは黄髪の彼女に尋ねた。
「失礼ですが、ご職業は?」
「見て分からないかしら?」
すると、どこからともなく吹き現れた柔風が黄髪とスカートをなびかせ、
彼女は得意げな笑みを浮かべて答えた。
「——————学生よ」
降り落ちるだけの陽射しが微笑むように彼女を照らし、
青々とした若人らの活気が彼女の在り方を祝福する。
…学び舎の住民となった彼女に、
ボクが感じたものは唯一つ。悪寒である。
‥‥この日叛に人の為す「労働」はない。
血戦嶽 雪花菜の革命によって、労働はAIが肩代わりするものとなったからだ。
【———私の中の怠惰が叫んだのだ。
「我々には、もう「労働」は必要ないのではないか?」
「労働はAIに任せ、我々は生を謳歌する世界を創るべきではないか?」——と。】
新世界【日叛】創成に際して行われた彼女の演説。
そこで一つのAIが発表された。
『ATA』
それは万能の電子脳を有し〝人を守護する者〟という人格を有した公正公平のAI。
甘納 茉奈のラプラス物質化に大きく貢献し、新旧二つの世界でAI社会を築いた孤高の天才————明日 歩の遺産である。
農業用から宇宙規模の環境調査用などATAは用途に応じた分体機〈プラナリア〉に搭載される。中でも政府から家庭・個人に貸与される〈家庭用プラナリア〉は、個人に代わって労働を行うことで必要最低限度の生活を送るための資金(衣食住・税・貯蓄など)を提供————かくして人類は「労働」から解放されたのである。
だが、一つ留意すべきは「働く」という行いが人々から失われたわけではない、という事にある。
【 「好きを仕事に」という広告文を見た事はあるだろうか?
かつて私の友人はこれを「陳腐だ」と言っていたが‥私はそうとは思わない。
たしかに時代を経て「働く」は生業へと変わってしまった。…しかしだ。
諸君らに今一度思い出してほしい。
―――――「働く」の起源とは「好き」への没頭ではなかっただろうか?】
『ATA』による最大の恩恵。
それは人類に「好きな事に仕える」自由を取り戻させたことであった‥‥。
永遠の命と自由。これよって多くの者が「生を謳歌すること」に勤しむ中、人気のある職業が生まれた。
‥旧世界であれば、誰しもが一度は望んだであろう白昼の夢。
‥はたまた社会人が、その間際に願ったであろう泡の夢。
職業―――「学生」。
理想郷たる新世界はそれを実現した。
学生職と呼ばれる彼らは 〝一度覚えたら忘れない〟 というラプラスシステムに応じた政府の教育機関が行う試験教育を受け、その報告書を提出。さらには毎年二種の研究論文を提出することが義務付けられている…。
「———こんにちは。少しは彼と進展したのかしら?」
にこやかに笑う彼女に話しかけられた無帯の女生徒は、しょんぼりと顔を下げた。
「そう…彼、かなり真面目だものね。
もう少し分かりやすくアプローチした方がいいのかもしれないわ」
親身になって助言をくれる彼女にお礼を述べながら女生徒は赤べこのように頭を下げる。
「頑張って。…それと困ったらいつでも連絡してね」
そういって颯爽と去っていく彼女の後ろをボクは付いて回るだけであったが、
「あなた、変わったものをつけているわね」
振り返ることもなく彼女が唐突に尋ねてきたので、ボクは窓に映った自分を見つめる。身の丈にそぐわない制服を着た自分の姿は、まるで額に合わない絵画を見ているようで目も当てられなかったが質問の意図は理解できた。
「‥‥イベントの衣装ですよ」
千切れんばかりに引っ張った赤帯を見せ、ボクは巧く笑って見せる。
けれども彼女は「…悪趣味だわ」と言い残すだけで一切振り返ることもなく歩みを進めた。
…ボクは非情に腹が立った。
「貴方は、どうして五回も死んだの?」
すると、彼女は足を止めて勢いよく振り返る。
「あなたね…! そういうことは…もっと…」
吹き出したような怒りがボクに向けられたが、
ボクの顔と首元の赤帯を見つめた彼女の声から怒りの色は徐々に薄れていった。
「謝るわ。別に悪い意味でそう言ったわけじゃないの。
私の友人も、そうだったから…」
「ごめんなさい」と彼女は頭を下げたが、ボクの視線が彼女の首元から外れることは決してなかった。
「‥‥私ね。白帯の頃から「学生」をやっているのよ」
すると不思議なことに、彼女は咎人の如く自らを打ち明け始めた。
…ある意味で、彼女は罪深き者ではあるが私的な法で人を裁けない。
「ずっと、ですか?」
「ええ。今回で七度目になるわね」
そこで初めて彼女は黒帯に触れた。
摘まむわけでも、撫でるわけでもなく、目一杯触れるようにして彼女は両手で首を掴んでいた。
「昔——‥あぁ、本当に小さいときの話なのだけど。
お年寄りは体力が落ちるから弱々しいのだと思っていたの。
年を経て、身体が思うように動かなくなって、自然と心も弱くなるんだ———って。
・・・でもね。じつは違うのよ。
人が年を取ると一番最初になくなるのは体力とか記憶力とか「力」じゃないの。
何かに懸ける想いとか希望とか好奇心とか、
‥‥そういう「熱」がね。 いつの間にか無くなっちゃうの」
「どうしてなのですか?」
乞うように尋ねるが、
「飽きちゃったから、かもしれないわね」と彼女は他人事のように答える。
…何に、とは言ってはくれまい。
「‥夫が亡くなって独りになっちゃったとき。
私も「私」が無くなっていくのを日々感じていたの」
すると、首から手を放して彼女は小さく手を叩いた。
「‥あっ! でもね。「死神さんに会える」っていう期待はあったの。
それこそ‥サンタさんでも待つような。本当に、懐かしい気分だったわね…」
そうして、再び彼女の両手は首を抱き締める形へと戻る。
「だけど、やっぱりそれも知らないうちに薄れていってね…。
残された時間を静かに過ごしていたとき、あの御方のスピーチを見たの」
「血戦嶽 雪花菜…」
新世界【日叛】を創り上げた女の名をボクは口にする。
彼女こそ、ラプラスシステムとデコイの併用による「永遠の命」を人類にもたらした者。そして、〝自らを犠牲とすることで生き永らえる〟という一つの倫理を人類に踏み越えさせた存在である。
その圧倒的カリスマと絶大な権力から『零の血雪』の異名を持つ彼女。
————血戦嶽 雪花菜こそ、この理想郷の神である。