2.「黄金の水底」
初めて海を見たのは10歳のころ。校外学習で訪れた沖縄の碧海だった。
太陽光を映したあのコバルトブルーの美しさに皆が見惚れる中、浜辺を行き来する無色透明の素直さにボクは魅了されていた。
あの白砂を全て取り払い、さらにはあれと同じくらいに透けたガラスを敷けたのならば————…そんな妄想に浸りつつ、少しだけロマンチストになった脳が何処からか「月の引力」というワードを釣り上げるとボクは大いに納得していた。
…これだけ素直なものならば、月が欲しがる理由も分かった気がしたからだ。
――――――――――――・・・————————————
――――――ここは。
みると、その全てが黄金に満たされていた。
均一で等しい黄金色ではなく、蜂蜜とカラメルを不規則に混ぜた黄金はトパーズよりも琥珀に通ずる深みがあり、まるで琥珀に閉じられた太古の物たちと同じ世界を共有したようでボクは興奮した。
『もし自分が死ぬとしたら、ニンゲンコハクとして飾られたい』
…それがボクの秘かに思い抱いている理想の死姿であった。
ボクであった肉体を、長い時間をかけてコハクにし、世界の片隅で細々と開いている美術館のさらに端の方に飾ってもらう。
それから不意に訪れた誰かの目に留まり、その足を止める事ができたのならば、コハクのボクはこう語り掛けるのだろう。
『これが人間だよ。驚いたでしょ』——————と。
だからこそ、ボクには死者の復活を期待した死体の冷却保存———冷葬という中途半端な死が許せなかった。当人が死んでもなお生を押し付けようとする他人のエゴと執着によって行われるそれが、死と生の狭間であり続けるだけの半端者を生み出している事に気付かない彼らの愚かしさが、ボクには理解できない。
死とは、須らく与えられるものであっても理をいれるものではないからだ。
―――――あれ?
‥‥興奮が静まったボクは一つの違和感に気づく。
この素晴らしき黄金世界を長いあいだ(本当は短かったのかもしれないが)眺めているにもかかわらず、頭や首を動かしたような肉体の操作感が一切ない。
…もし、今の自分が生首状態だったとしても眼球を動かす感覚すらないのは流石に不自然であった。
―――――夢、じゃない?
いつも見る明晰夢であれば自由が利く。
だけど此処に在るボクは、重さという概念が取り払われた俗に言う魂だけのボクで、秘かな願いをかなえてもらった程度で浮遊と解放を自由と勘違いしてしまう愚かな少年だったのだ。
…――――――――。
黄金の海で漂うボクは、さながら水下で迷い揺らぐ一枚の藻屑。
浮上も沈没も出来ず、ただ延々と生え揺らぐだけのボクはそれから間もなくして、
———っ…?…っ!!
【‥過剰を覚えた】
知らないナニカによって風船みたいに膨らんだボクは〝もう何も入らないよ〟と彼ら(?)を拒んだけれど、いくら拒んでも蒸留酒をありったけ飲んだようなままならなさがボクを捕まえて〝まだ入る、まだ入る〟とナニカが無理やりに押し込まれた。
===========パンッ============
【次に限界をむかえた‥】
とうとう破れてしまったボクは吐き出したのだ。
〝ダカラ・言ったでしょ〟
それでも彼らは再び〝あいた、あいた〟とボクを膨らませ始めたので、ボクはもう一度破けて吐き出した。
========パンッ=====パンッ=======
〝ホ・ラ・ネ〟
〝あいた、あいた〟
〝まだ入る、まだ入る…〟
吐いては入り、
吐いても入り、
入れるように吐き、
吐きたくても、入れなくて‥‥?
拒食の吐き癖が脱糞と近しいものになった時点から
「ボク」は塵となり、霞となり、そうして、それから―――――
【・・・・ソレから無理やりに矯正された】
善意も悪意もない彼らによってボクはフランケンシュタインの怪物にされた。
継ぎ接ぎのボクには逃避も、自壊も、抗う意思さえも許されず、
ボクはよく分からないものを際限なく飲み、吐き続ける。
止まなく生える雑草のように、
揺蕩うだけのボクにはどうすることもできない。
ただの「ボク」には、自らを爆竹蝦蟇と重ねることしかできなかった…。
『「爆竹蝦蟇」とは、何とも古風な言い回しだね。他のラプラスに当てられたせいかな』
‥‥声がした。
この黄金の水底において初めて聞いた誰かの言葉。
冷たくも、あたたかくも、厳しくも、やさしくもない世界に落ちた彼(もしくは彼女)のひと粒の言葉は静かに黄金の水下へと溶けていった。
「ナン‥‥何だ?」
言葉が発せられたことに戸惑いながらもボクは言葉の主に尋ねる。
『What(何か)とは、何とも我儘で曖昧な質問だね。
それとも‥‥いや、ただ肝が据わっていると言った方が正しいのかもしれない。
――――――まぁ、今の君には据わる肝さえありはしないのだけれども』
「・・・・」
声はすれども、その主はどこにも見当たらない。
どこを見回しても不規則な黄金たちが変わらずボクを観覧するばかりである。
『こらこら、少しくらい反応しておくれよ。
君がいることは分かるけれども君が在ることを私には決定できない。
もし君が「ボク」でなくなったのならば私は君をラプラスの悪魔から守らなければならないからね』
「ラプラス…? あのラプラスで間違いないのか」
…知った単語があれば繰り返してしまうのは人間の性だ。
『あぁ、そうだね。
アマー…甘納茉奈博士によって発見された記憶粒子。
人の記憶———…詳しく言えば死体の記憶に内在したであろう未知のエネルギーに着目した彼女の遺産。古き偉人より名を借りたラプラス(Laplace)に相違ないとも』
少し拗ねたそうに謎の声は答えた。