聖なる獣のお伽噺 ⑤ 【渡辺哉一 Ⅰ】
「おーい。」
闇の中に、松山のニヤけた声が響く。
凍えるコンクリートの壁に当たり、声が室内を跳ね返る。
カツカツと床を歩く音が近づいて来る。
「怖いよ!」
「ダメだよ。声出しちゃ」
ボクは、暁斗に言う。
闇に隠れて、声から距離を取る。
足元の瓦礫を蹴飛ばして、音を出さないように慎重に歩く。
そして、とある部屋に入る。
なんとか、月明かりがホテルの中に差し込んでいる部分は見える。
多分、此処は調理室だ。
「おーい」
松山は室内に入って来た。
松山の持つ、強いライトの明かりが差し込んでいる。
松山の先に先に動いて、今松山が入って来たのと違う出入り口から、廊下へ出る。
そして、気付かれないように階段を登る。
「外に逃げないの?」
暁斗が訊く。
「こんな寒い中、この服装で外に出たら凍死ちゃうよ? 車のキーはアイツが持ってるし、此処は多分山奥だ。さっき窓から外を見たけど、近くに人工の灯が見えない。外に逃げて助けを求めるのも難しいだろう。……日が昇るのを待つしか無い」
「君は、ねむ子じゃ無いの?」
「ああ、僕はボクだ」
「何それ? なんで、松山さんは僕らに酷い事するの?」
「分からないよ……!?」
こんな、松本との追い駆けっこを、かれこれもうどれくらいやってるだろう?
やるなら、すぐに来れば良いんだ?
何が目的なんだ?
取り合えず出来るだけ松山と離れる為に、上へと階段を登る。
ナイフを突きつけられて、途中からトランクに詰められてやって来たから、此処がどこかは分からない。
ボクは考察するーー。
こういうのはねむ子よりボクの方が得意だ。
ねむ子の逃げるルートを考えているのも、ほとんどがボクだ。
北関東のどっかだろうか? 雪でも降るんじゃないか? というくらい寒い。
満月が出ているが、雲がある為に、時々暗黒に包まれる。
なんとか、隙を突いてトランクが開いた瞬間逃げ出して、この建物に逃げ込んだがーー。
此処は廃ホテルか?
外観や備品からはそんな感じだろう? 旅館か、どこかの企業の保養施設の跡かも知れない?
それにしても、松山とかいう男もヤバイが、同じくらい寒さがヤバイ。
雪こそ無いものの、命の危機を感じる寒さだ。
室内でも、コンクリートで出来た建物の中は、風が防げる以外、外とそれ程変わらないだろう。じっとしてるだけで、低体温症になりそうだ。
子供の体で朝まで持つか? ボクは暁斗を見る。
ーーそして、自分も持つか?
どこか、完全に外気から遮断された狭い空間で、体を寄せ合っていた方が良い。
此処が廃ホテルなら、毛布でも無いか? ビニールシートなんかも有ると尚更良い。
幸い子供は体温が高い筈だ。1人ならヤバかったが2人なら、松山さえどうにかなれば朝まで持つ。
ーーいや、松山を倒してしまえば、車のキーを奪える筈だ。
免許は無いが車の運転は出来る。此処で警察に止められる事も無いだろう。
幸いねむ子の殺人バックは、取り上げられずに済んだ。
中には、アホほど病院から盗んだ医療用メスが入っている。
だが、一応武器はあるが、当然僕はねむ子の様にはやれない。
足の障害も、ねむ子はアドレナリンの所為なのか、物ともしないが、僕はそういう訳には行かない。逃げる分にはまだ良いが、一瞬の遅れが勝敗を左右する殺し合いでは、大きなハンデになる。
ーーそれに
トランクから出た時見た松山は、持参したぶ厚い防寒着を着込んでいた。
最初から準備をし、獲物を物色していたのだ。
それにまんまと、ねむ子は引っ掛かったのか……。
バカが。
となると、ナイフ以外のさらに殺傷力の高い武器を用意してある可能性は高い。
防寒着は車に無かった。この建物のどこかに、隠していたのかも知れない。
そうなると他の武器も、やはり隠してある可能性が高い。
アイツは何者だ? なんでそこまでするんだ? こんなことする必要がーー。
いや、よく知ってるそういう奴をーー。
なんという偶然だ。サイコが、サイコに狙われるなんて。
これは、日頃の行いだな……。
となると簡単に倒すとは、いかないかーー。
ねむ子のが好んで使う医療用メスは、確かに良く切れるが、何度も切れるような物では無い。
基本一回の殺害で3回も斬れば、切れなくなり使い捨てだ。その為に数がいるのだ
ねむ子が好んで医療用メス使うのは、自分のキャラクターからというのもあるが、それだけじゃない。自分の身体能力に一番合っているからだ。
小さな刃しか持たない医療用メスが、最大限に戦いに置いて威力を発揮出来るのは、あの猫のような身のこなしがあるからこそだ。
そして、そのスピードを殺さない為に、小さく殺傷力の高い武器が必要になる。
あまり武器が大きいと、ねむ子の小さな体には逆に邪魔だ。
頚動脈を皮膚科3cmだけ切れさえすれば良い。それで、終わりだ。
そうなると医療用メスが一番理に適っている。
そして、基本メスで殺害するので戦闘時にあまり分からないが、ねむ子はパワーも生身の男の首をへし折るくらいはある。
脳に流れるアドレナリンの量が、肉体のリミッターを外している。
だが並みの力しかない自分が、武器を持つ相手に小さなメスで戦うのはあまりに不利だ。
一先ず逃げる事を一番に考えて、様子を見よう。
本当にねむ子の奴、自分の強さに自信がある分、相手への警戒心が無さ過ぎる。
ーーで、そのねむ子が起きるまで、どの位だ?
此処に来た時点でもう暗かったが、日没が17時としても、ーー7時にねむ子が眠りに着いた。
今は何時だ?
それが分からないと、目覚める時間が分からない?
そうだ! 月だ。月から、時間が分かる筈だ。
月は満ち欠けと方角で、時間が分かるって聞いた事がある。
確か満月なら、夕方18時頃に東の空に昇り 、0時に真南に、夜明けに西に沈むと言っていたな?
階段から廊下に出て、近くの部屋に入り、窓から外を見る。
満月は、東の空の低い位置にある。
ーー18時くらいか?
だとすると、ねむ子が目覚めるまで、最大約13時間かーー。
13時間逃げ回るには、この子の体力が持たないだろう。
逃げる事を選んだが、勿論戦う事も想定しておかなくてはならないだろう。
その時に、戦うにしたって、この子と一緒にという訳にもいかない。
一先ず、どこか落ち着ける所を見つけなきゃな。
取り合えず、もう少し移動して、数階上の部屋に入る。
そこに決めた理由は、窓ガラスが割れていなかった事(他の部屋は侵入者が割ったのか大体割れていた)と、ベッドに毛布が置かれたままだった事だ。
部屋も他程荒れてない。
ベッドの毛布を剥がして、さらに狭いクローゼットに入る。毛布は、多少湿気っていたし、当然冷たかったが、体に巻いて暫く我慢すれば直ぐに暖かくなるだろう。
クローゼットの中は、逃げ場を失うが、空気の流れも無いし、より寒さは防げる。
今は、先ず身体を温める事だ。
湿気った毛布に暁斗と包まり、凍えた体をギュッと寄せ合う。
毛布もクローゼットも、埃っぽいし、カビ臭いが、我慢だ。
逃げる事に神経を集中して来たが、落ち着くと寒さで急に震えが起きる。
暁人も震えている。
あれだけ階段を登って来たのに、全然身体は温まっていない。
どうして、ねむ子がこの子を連れて来たのか分からなかったが、
自分の傍らで、雨に打たれた子犬のように震える、小さな暁斗の姿を見ていて気付く。
ーーああ、この子は結子に似ているんだ。
と
暁人の小さな頭が頬に触れる。シャンプーと子供の匂いがした。
懐かしい感覚だ。
この子からは聞いていないが、顔や体の見える部分には青痣がる。
多分虐待により受けたものだ。
結子は今はもう居ない、ボク達の主人格だ。
無害でか弱く、ただただ優しい少女だった。
人と違い生まれたというだけで、苦しみ抜いて生きた。
だが虐待に苦しみながらも、己を歪める事なく、その結果新たな人格を生み出した。
ボクの守るべき存在であった。
だが、ねむ子自体はそれ程、結子を知らない筈だ?
結子が居た時は、片鱗こそあれ、ねむ子はまだ独立した人格とまでは言えなかった。
結子を失った事で、ねむ子は完全に覚醒したのだ。
それでも、深層心理下に、結子の記憶を残しているのかも知れない。
もしくは、ボクを通じて結子の記憶を感じていたのか。
その真相は分からない。
ーー多分、ねむ子自身にも分からないだろう。
良いだろうねむ子、だったらお前の思い付きに付き合ってやる。
お前が出て来るまでは、この子は僕が守ってやる。
その後は、お前があの男と決着を付けろ。




