〜3〜
それから十年の月日が流れた。
裕輔はその後、同じ会社の女性と結婚し、子供も二人もうけた。特に華やかな人生ではないが、落ち着いた毎日を送っている。未だにナンの種は使っていない。特に種を使うほどの願望もなかったし、今のところ平穏無事の人生を送っている。もちろん小さな願いは沢山ある。一戸建ての家が欲しいとか、給料が上がるようにとか、数え上げたらきりがない。しかし、いつかもっと大切なことで、種が必要になる時が来るかもしれない。その時まで大事に取っておこうと思っていたのである。
ナンの実の精は、あれきり二度と裕輔の前に姿を現さなかった。裕輔が種を手に入れたことに安心したのだろうか。再びナンの実の精が現れたら、裕輔は訊こうと思っていた。貴方は一体何者なのか。そして、ナンの実は、なぜ種を植えた者の願いを叶えるのかと。
裕輔は、ナンの実の精のことも、自分がナンの種を美奈から返してもらったことも、井上には話していなかった。もちろん妻にも子どもたちにもである。人生を変えてしまうこの種の存在は、もう誰にも知らせないほうがいいと思ったのだ。
人間は弱い生き物である。昔読んだ中国の話のように、己の欲のために殺し合いをすることだってある。井上や自分の妻子を疑っているわけではないが、あれほど信じていた美奈でさえ欲に取り憑かれ変貌してしまった。また或いは、彼らがふとした拍子に他人に話してしまうかもしれない。身内であれ他人であれ、この種のために人生が変わっていくのを見るのは、もうごめんだった。自分の撒いた種がやがて木になり実をつけたら、種を集めてどこか山奥に植えよう。人目につかぬひっそりとした場所に。
穏やかな晩秋の午後、裕輔がパソコンをいじっていると、横でテレビを観ていた妻が言った。
「あら、岡崎美奈、自殺したんだって」
裕輔は一瞬呼吸が止まった。
裕輔が振り返ってテレビを見るとそこには、かつて裕輔の愛した美しい美奈ではなく、疲れた顔のアラフォー女性が映っていた。ここ何年かは、すっかり人気も下降し、テレビでも滅多に見かけなくなっていた。
「元々、美人っていうだけで演技下手だったものねぇ。年を取ったらただの人、ってかんじ。でも、女優って大変ね、皺ができたら人生おしまいなんて。私なんか命が幾つあっても足りないわ」
裕輔と美奈の関係を知らぬ妻は呑気に言う。
美奈の人気に翳りが出始めたのは、森村慎也と離婚した頃からだった。もともとルックスの良さとキャラクターだけを売り物にしていた美奈だ。若いうちはそれでも通用するかもしれない。しかし、若くて美しく魅力的な女優なら他にも沢山いる。演技力もなく若さを失った美奈に、世間が飽きるのは当然であった。かつては毎日のようにテレビに映し出されていた姿も、徐々に週一度となり、月一度となり、最近では再放送でしか見かけなくなっていた。世間の人々がそうであったように、裕輔もまた、次第に美奈の存在を忘れていった。
三十歳を過ぎてからは、美貌の衰えを極端に恐れていたらしい。若さを保つ為いろいろな努力をしていたそうだ。一回何十万円も掛かるエステティックサロンに通ったり、高級皺取りクリームを使ったり、美容の面でのお出費は惜しまなかったという。
彼女には女優としての才能がなかったのだと、ある演出家は言った。顔さえ美しければいいと勘違いしていたそうだ。彼女が演技の勉強を真剣にやっていれば、このような不幸は避けられたかもしれないとも言っていた。
しかし、全てをナンの種に頼ってしまった美奈は、そのことに気付かなかったのだろう。ナンの種によって築いた地位は、いつか崩れてしまうのに。
ワイドショーによると、最期の美奈は半ばノイローゼ気味だったという。美奈の死体が発見された時、フローリングの部屋に、枯れた植物の鉢や土が床中散乱していたらしい。生活感のない整理整頓された部屋で、それは異様な光景だったという。麻薬を栽培しようとしていたのではないかとも言われていたが、それは違うと裕輔は思った。
おそらく、裕輔と井上だけが真実を知っていた。美奈はきっと、永遠の若さと美を願って、或いは再び女優としての成功を願ってナンの種を植えていたのだ。しかし、それらの種は芽を出さず、或いはすぐに枯れて、美奈の願いはとうとう叶わなかったのだ。
種を全て使い果たした時、美奈はどんな気持ちだったのだろう。
裕輔は思った。自分の欲望を叶える為に次から次へと惜しみなく種を使っていった美奈と、人生の一番の願いのために種を大切に取っておく裕輔、一体どちらが本当に欲深い人間なのだろうか。
何処からか甘い桃の香りがする。いや、気のせいか。季節は冬を迎えようとしていた。(了)