〜2〜
東京へ帰った裕輔は、権堂から聞いた話を一通り美奈に話して聞かせた。
美奈は興味なさそうに聞いていたが、裕輔がナンの実の種を一粒美奈に与えると少し心が動いたようだった。裕輔は、残りの種が入った封筒をリビングの整理棚の引き出しにしまいながら言った。
「何でもいいから、願い事を掛けてごらん。乾燥してるかもしれないから、少し水に浸けといたほうがいいって言ってたよ」
「まさか、ほんとに信じてるんじゃないでしょうね。そんなばかげた話」
美奈はそう言いながらも立ち上がると、食器棚からグラスを取り出した。やがて水音がし、種を放り入れるちゃぽんという音が聞こえた。裕輔はくすっと笑った。
裕輔と美奈が一緒に暮らし始めて二年余りになる。友人の紹介で知り合い、三ヶ月で美奈が裕輔の一LDKのマンションの部屋に転がり込んできた。美奈は今年誕生日が来れば二十六歳だ。裕輔より五歳年下になる。おかげで裕輔には、美奈の生意気な態度さえ可愛く思えるのだった。美奈はモデルだった。といっても、時々雑誌やチラシに使われる程度だ。もちろんモデルでは食べていけないので、実質的には会社勤めをしている裕輔が養っていると言っていい。美奈も自分の立場を心得ていて、仕事のない時はいつも食事を作って待っていてくれる。案外、家庭的な女だった。裕輔は、そんな美奈との生活に満足していた。そのうち美奈を両親に紹介しようと思っていた。
翌日、裕輔が仕事から帰ると、種が入っていたグラスがテーブルからなくなっていた。もしやと思いベランダを覗くと、真新しい土が盛られたプランターがある。
「何、願い事したの?」
夕食時、美奈の作った筍の土佐煮に箸を伸ばしながら訊いた。
「その手には引っ掛かりませんようだ。人に話したら叶わなくなるって言ってたじゃない」
「どうせ、叶わないんだから、言ってみ」
「やーでーすー。絶対言わない」
「けーち」
「どうせまた、パリコレの仕事が来ますようにとか、そんなのだろ。ま、楽しみにしてるよ」
半分馬鹿にした裕輔の口調に、美奈は反応しなかった。
裕輔自身は、今のところ種を使うつもりはなかった。これといって願いもないし、つまらないことで使ってしまうのはもったいない。その前に、フリーライターをしている友人に声を掛けて、種を分析してくれる研究者を紹介して貰う予定だった。その結果が出てからぼちぼち考えていこうと思っていたのである。
美奈が種を蒔いた日から一週間ほど経った、日曜の朝のことである。裕輔がリビングのソファで新聞を読んでいると、ベランダで水遣りをしていた美奈が悲鳴を上げて飛び込んできた。
「何?虫でもいたの?」
裕輔は新聞から顔を上げた。
「やったー。出た、出た。芽が出たー」
美奈は裕輔の周りを踊りながら騒いだ。二人でベランダに出て見ると、確かに小さな双葉が土から顔を出している。
「ねっ、出てるでしょ」
美奈はうわずった声で言う。そんな美奈に裕輔は毒気づいた。
「雑草じゃないの?鳥が運んできた何かの芽かもよ」
「違うの、これはナンの芽なの。ああ嬉しい」
「じゃあ、願いは叶ったんだ?」
「まだ。これから」
美奈の語気には、絶対に願いが叶うという確信が感じられた。
「で、何をお願いしたの?」
「またまた。教えませんよ、せっかく芽が出たのに」
先週まではあんなに馬鹿にしていたのに、と裕輔は可笑しくなった。もしこれで美奈の願い事が叶わなかったら、大変な嵐になるんだろうな、と思った。
その後、特に何ごともなく一ヶ月が過ぎた。美奈の願いが叶ったかどうかを、裕輔は知らなかった。美奈に変わった様子は見られなかった。過去に於いて美奈は、何か事件が起きればどんな些細なことでも必ず裕輔に報告せずにいられなかったので、きっとまだ願いは叶っていないのだろうと裕輔は思っていた。それを美奈に確認するのもヤブヘビなので、敢えて何も訊かなかった。
金曜日の夜だった。関東地方ではようやく梅雨明け宣言が出され、蒸し暑い季節が到来した。その夜、裕輔は会社の飲み会で、帰宅したのは午前0時を回っていた。
玄関を開けると、中は真っ暗だった。普段ならこの時刻、美奈はまだ起きている。具合でも悪いのか。裕輔はリビングの明かりをつけた。何かおかしい。何かが違う。ベッドルームのドアを開けた裕輔は絶句した。部屋にあった美奈のクローゼットがない。押入を開ける。そこも、ぎゅうぎゅうに入っていた美奈の荷物がなくなっている。裕輔は、何が起きたのか状況を把握できなかった。
もう一度リビングに戻った。先程は気付かなかったが、テーブルの上に分厚い封筒と手紙がある。
「裕輔へ。今までありがとうございました。これからは一人で生きていきます。さようなら。美奈」
簡単な手紙だった。裕輔はそれが別れの手紙だと気付くまでに数秒かかった。手紙に添えられた封筒には「お世話になったお礼です。使って下さい」と書いてあり、中には数えるのが面倒なくらいの札束が入っていた。
「ふざけんな。なんだ、こりゃー」
裕輔は封筒をテーブルに叩きつけた。
美奈の願いはこれか?俺と別れたかったのか?
裕輔は突然、捨てられた男になった。
翌日の午後、裕輔は何もできずに、ベッドに転がってぼんやりとしていた。何かを考えようとするが何も考えられない。美奈の言動が断片的に浮かんでは消えていく。昨夜からずっとそんな状態だ。
そんな時、裕輔の友人の一人、井上から電話が掛かってきた。井上は、種を分析してくれる人を紹介してくれないかと頼んであったフリーライターだ。昨夜からほとんど寝ていない裕輔は、受話器を取るなり「美奈?」と言っていた。そんな裕輔の様子を気にも留めず、井上は快活に話し出した。
「前に頼まれてたやつ、あれ、みつかったよ」
「ああ?」
裕輔は気乗りしない声で答えた。
「農業試験場の所長が、その種を持ってきてみろって」
「ああ」
裕輔の元気ない声に井上が気付いた。
「どうした?風邪でも引いたか?」
裕輔は声を絞り出した。
「美奈に逃げられた」
それから一時間後、井上は缶ビールを抱えてやって来た。
「何だ、その顔。亡霊みたいな顔して」
井上は会うなり言った。
「ああ、昨夜からいろんなことが頭ん中でぐるぐる回って、眠れないんだ」
「その調子じゃ何も食ってないんだろ。ま、とりあえずこんなもんでも食えよ」
井上はリビングのテーブルに缶ビール、それに、出来合いの鶏の唐揚げやサラダ、チーズなどを並べた。
「飲んで、ぐっすり眠るんだな。こういう時は眠るが一番」
二人はビールの栓を開けた。裕輔は、井上の気持ちがありがたかった。
井上とは、高校時代の同級生だ。大学時代は疎遠になっていたが、社会人になってからつき合いが復活した。今も、しょっちゅう連絡を取り合っているわけではないけれど、年に数回は会っている。もちろん美奈との馴れ初めも知っているし、裕輔が「願いを叶える果実」を探していたことも知っている。
「一方的に別れるなんて、あんまりだよな。大きなモデルの仕事が入って、俺がじゃまになったのかもしれないけど、それならそれで話してくれれば」
井上は、裕輔の行きどころのない思いを、黙って聞いていた。三十歳を過ぎてからの別れが身にこたえることを、井上は察した。
「こんなこと、ここで言ってても仕方ないんだけどね。忘れるしかないんだろうな。しばらくは、がんがん仕事に打ち込むか。自分がこんなに情けない人間だとは思わなかったよ」
「まあ、そのうち、何か良いことあるよ」
井上には、それくらいしか言うことができなかった。
「良いことねぇ」
「じゃあ、どうする?種の件。向こうはいつでも持って来いって言ってくれてるんだけど、お前、今そんな気分じゃないだろ?もう少し後にしようか?」
裕輔はそれを聞いて、突然思い出したように立ち上がった。
「そうだ。まさか……。ちょっとごめん」
裕輔はまずベランダを確認した。美奈が植えた鉢植えがない。次に、種がしまってある引き出しを開けた。
「ない……。やられた」
井上がそれを聞きつけた。
「ないって」
「種だよ。美奈に全部持って行かれた」
気落ちする裕輔に、井上が解説した。
「普通の人間は、ナンの実を手に入れたら何を願う?きっと、生死に関わるような大切なことは願わないだろうな。その実の効果が確信できないうえ、もし、重大な願いを掛けてその芽が出なかった場合のショックを考えると、大切な願いは掛けられない。きっと、叶わなくてもともと、叶えばラッキーという願い事をするんじゃない?たとえば宝くじやギャンブルだ。俺だったらまず、宝くじで一等が当たるように願うよ。美奈ちゃんも、その可能性大だよね。裕輔に置いていった金だって、たとえ大きな仕事が入ったからといっても、そう簡単に手にできる金額じゃないだろ。おそらく宝くじでも当てたんじゃないかな」
裕輔は力なく頷いた。
「ただ、こんなこと言っちゃ悪いけど、裕輔にとって不幸だったことは、種がたくさんあったことじゃない?もし、種が、美奈ちゃんにあげた一つだけだったら、美奈ちゃんは宝くじの賞金で家でも買って、一生裕輔と幸せに暮らすことを考えたと思うよ」
でも、種はたくさんあったのである。「願いを叶える果実」の種を幾つも手に入れてしまったとしたら、これから先、サラリーマンの妻として平凡な人生を生きるより、人生に欲が出てしまっても不思議はない。美奈の口癖は、「いつかスーパーモデルになって裕輔を食べさせてあげる」だった。上昇志向の強いそんな美奈のことだ。ナンの実を使ってその願いを叶え、華やかな人生を手に入れるのだろう。その夢から裕輔の存在が切り取られてしまったことが、裕輔は情けなく感じた。
その夜、井上のお陰で裕輔は眠りにつくことができた。いろいろな夢を見たような気がするが、目を開けた途端、忘れてしまった。一晩眠ったことで時間が動いた気がする。裕輔の中に、あらためて井上に対する感謝の気持ちが沸いた。こうして毎日暮らしていけば、目が覚める度に悲しみが薄らいでいき、いつか忘れることができるだろう。昨夜までの自分は、どうしても美奈と会って話がしたかったし、美奈の友人に連絡を取ろうと思っていた。が、今朝目覚めてみると、そんなことをしても無駄のように思った。投げ槍になったのか、冷静になったのかは、裕輔自身も解らなかった。失ったものをいつまでも悔やんでいるのは建設的ではない。当分の間は心が痛むだろう。いつか時が忘れさせてくれるまで、おとなしく待つしかないのだろう。
裕輔は、これからはもう美奈のことを考えるのはやめよう、と思った。
美奈が裕輔の部屋を出て行ってから、半年が過ぎた。日々の仕事に追われているうちに、いつの間にか裕輔の心の傷は浅くなっていた。一人暮らしの気楽さもなかなかいい、と思えるまでになっていた。そんな時、裕輔のパソコンにメールが届いた。井上からだ。あれ以来、すっかり無沙汰している。
「遅くなりましたが、明けましておめでとう!今年もよろしくお願いします。その後、元気?余計なことかもしれないけど、一応知らせとくよ。先週始まったドラマに美奈ちゃんが出てる。しかも、主役だ!毎週月曜日午後九時からのフジテレビでやってる。やっぱりあの種を使ったのかなぁ?」
次の週を待つまでもなく、裕輔は美奈の姿をテレビで見ることになる。
美奈は、トーク番組にゲストとして出ていた。ドラマは大好評で、人気もうなぎ登りだそうだ。生意気で自由奔放な美奈のキャラクターが、世の女性を中心に受けているのだという。半年ぶりに見る美奈の顔は、化粧の仕方を変えたのか芸能人らしくあか抜け、裕輔と暮らしていた頃よりずっと綺麗になっていた。別れた女が、自分と別れた後に美しくなったのを見るほど不快なものはない。厚化粧の美奈より、素顔のほうが可愛かったのに、と裕輔は自分を慰めた。
それからというもの、裕輔は美奈の顔を頻繁に見るようになった。美奈がTVや週刊誌に顔を出さない日は一日としてない。あっという間に美奈はスターダムにのし上がった。
テレビという媒体を通して見ているせいか、裕輔は次第に、何の感情も持たずに美奈の顔を見られるようになっていった。かつて自分と恋愛関係にあった美奈とは別人の、遠いスターのように見えた。これはいい兆候かもしれない。井上へも、そうメールを送ったら、すぐに返事が来て、それは良かった、と喜んでくれた。
それからしばらくして、美奈はある雑誌の「抱かれたい男ナンバーワン」に選ばれた俳優、森村慎也と電撃結婚した。美奈は、裕輔と一緒に住んでいる時からこの俳優のファンだった。
「一番好きなのは慎也。裕輔はその次よ」
当時、美奈のそんな言葉は照れ隠しだと思っていた。素直に裕輔のことを愛してると言えない美奈の、精一杯の言葉だと思っていた。今でも疑いたくはない。それに、その時の真意がどうであったかなんて、今さら考えても仕方がない。ただ一つ、裕輔が気になったことがある。美奈はこの結婚に関して、ナンの種を使ったのだろうか。
「まさか、美奈ちゃんがこんなにビッグになるとは思わなかったね」
三月下旬、裕輔は久しぶりに井上と居酒屋にいた。
「ほんと。演技のえの字も知らなかったようなヤツがさ、まさか女優になるとは思わなかったよ」
裕輔は焼き鳥を口に運んだ。
井上もレモンを搾りながら
「結婚もしたし、今が人生の絶頂期って感じだよな」と言い、直後に、しまった、という顔をした。
「構わないよ」
裕輔は言った。
「誰だってただのサラリーマンの妻より、いい男の妻で、大女優って人生のがいいよ。別に自分を卑下してるわけじゃなくさ、ほんとにそう思うもん」
「う〜ん、そうじゃない女もいるけどねぇ、俺たち、女運悪いのかな」
井上はここ数年、女とつき合ってはすぐ別れ、つき合っては別れ、の繰り返しだ。
「俺たち、にしないでくれる?俺はまだまだ、これからよ」
「ところでさ」
井上がジョッキを置いて声のトーンを落とした。
「美奈ちゃん、森村慎也と結婚するのに、あの種使ったのかな」
裕輔は声を上げて笑い出した。
「俺もそれが気になってた」
二人は肩を叩き合い、笑った。
「美奈ちゃんが持ってった種は幾つ?」
「十四個だ。まず、有名女優になるのに一つ使ったろ」
「これでまた一つ使ってたら、残り十二個か」
「あと十二。一体何をやらかしてくれるんだろうな」
二人は再び笑い声を上げた。
あと、十二。美奈はどんな十二の願いを叶えるつもりだろう。
金も手に入れた。女優としての成功も、理想の男性も手に入れた。これ以上、一体何を望むというのだ?
リビングのソファーでそんなことを考えているうち、裕輔はうたた寝をしてしまった。裕輔は、ソファーでうたた寝をするのが気持ちよくて好きだったが、美奈は嫌がった。「寝るならベッドで寝て!」と美奈の言葉が聞こえてきそうだ。
その時、夢うつつの裕輔の頭に女の声が響いた。
「貴方にお願いがあります」
裕輔はうつらうつらしながら、その声を聞いた。テレビがつけ放しだったか。
玲瓏としたその声は言った。
「あの種を、取り戻してください」
裕輔は片目を開けてテレビの方を見た。テレビは消えている。寝ぼけているのか。うっすら両目を開けた裕輔は、傍らに人の気配を感じた。裕輔はぎょっとして起きあがった。一メートルほど離れた床の上に女が立っていた。裕輔が起きたのを確認して、再び女は言った。
「貴方にお願いがあります」
裕輔の頭はすっかり覚醒した。
女は、昔の飛鳥時代のような衣装を着て、薄く透ける布を幾重にも羽織っていた。その肌は向こう側が透けるように白く、黒曜石の瞳、唇は桃の色、花のような甘い香りが辺りに漂っている。
この世の者ではない。裕輔は直感的に思った。
「あの女から種を取り返して下さい」
あの女とは、美奈のことか。
「そうです。あの女は私の種を育てられない。みんな枯らしてしまうのです。このままでは、私は滅びてしまう。お願い、種を取り戻して、木に育てて下さい。そうすれば、貴方の望みをどんな望みでも、叶えて差し上げましょう」
取り戻すと言っても、と裕輔がまばたきをした瞬間、女は霧のように消えてしまった。あとには桃に似た香りが残っていた。
あれは、昔読んだ本に出てきた、中国の少年が見た女と同じなのだろうか。まさか自分が遭遇しようとは思いもしなかった。もしかして、権堂もあれを見たのだろうか。
しかし、いくらナンの実の精の頼みでも、裕輔は美奈と会うつもりはなかった。第一、連絡の取りようがない。連絡が取れたとしても相手は大スターだ、会えるわけがない。裕輔は、とりあえず美奈の事務所宛に美奈へのファンレターを書いた。
「岡崎美奈様
いつもご活躍、拝見しております。僕は貴方のした仕打ちを恨んでいませんし、もう貴方に対して何の感情も持っていません。ただ、あの種を返してほしい。あの種は僕が長年掛けて手に入れたものだ。一つでもいいから、返して欲しい。あとは、貴方がどうしようと構わないから。もし、貴方が僕の要求を拒否したなら、悪いけどマスコミに過去のことを全てぶちまける。以前と同じ所に住んでいるので、ご連絡下さい。今後ますますのご活躍をお祈りしています。茂木裕輔」
脅迫と取られても構わない。だが、この手紙を美奈本人が読んでくれる保証はない。たとえ読んだとしても、返事をくれるかどうかは賭けである。ナンの精には悪いが、裕輔にはこれくらいしかやりようがない。裕輔は、翌朝、家の近所のポストに投函した。
美奈が植物を育てるのが苦手だったことは、裕輔もよく知っている。基本をわかっていないのだ。裕輔と伊豆に行った時に買ったサボテンは、毎日水を遣りすぎて根腐れさせたし、ベランダの花は、気が向いた時しか面倒を見ないからすぐにダメにする。そんな美奈が、あの種を、せっかく芽が出てもすぐに枯らしてしまうことは容易に想像がつく。もしこれで美奈から何の連絡がなく、ナンが絶滅してしまったらそれは仕方がない。それがナンの運命だったのだ。
しかし、意外なことに、美奈からの返事が来た。裕輔が手紙を送ってから半月以上経っていた。封筒を開けると、種がごろんと一個出てきた。他に手紙もない。
「まあ、今さら、俺に言うことなどないだろうが」
裕輔は種を手の平で転がした。種を返してもらった喜びと、何も手紙が入っていなかった寂しさとで、複雑な気持ちがした。
とにかく種を手に入れた以上は、この種を植えねばならぬ。裕輔は食器棚を開け、グラスを取り出した。その行為は、初めて種を美奈に与えた時のことを思い出させた。食器棚は美奈がいた頃のそのままである。随分昔のことのような気もするし、昨日のような気もする。あの時、軽い気持ちで美奈に種を与えたことが、このような結果をもたらすとは思わなかった。今、美奈がここにいないことを奇妙に感じた。これは単なる感傷だ、と裕輔は自分に言い聞かせた。
「さて、どんな願いを掛けよう」
裕輔は、グラスに水を入れかけた手を止めた。ナンの実の精は、どんな願い事でも絶対に叶えてくれると約束した。絶対に叶うというのなら、どんな願いがいいだろうか。幸い裕輔は健康体であるし、身内にも病を患っている者はいない。美奈のように宝くじを当ててもらおうか。いや、それならば会社社長になるのもいい。そうだ、大金持ちで美人で性格もいい女と結婚するというのはどうだ。それともいっそ、魔法のランプでも出してもらうか。
裕輔は、自分の考えがどんどん度外れになっていくのを感じた。これは、しばらく頭を冷やして慎重に考えた方がよさそうだ。焦って種をくだらないことに使ってしまって、後悔してからでは遅い。何しろ今、種は手元にあるのだ。時間を掛けて考えよう。いずれ本当の願い事がわかるだろう。
美奈から種が送られてきて間もなく、裕輔は、美奈と森村慎也が離婚したニュースを聞いた。
これは、離婚できるよう種に願いを掛けたわけではなく、結婚できるよう願いを掛けた種の、それから出た芽が枯れてしまったに違いない。
裕輔は、権堂を思い出していた。