〜1〜
新幹線の車窓からぼんやり景色を眺める茂木裕輔の頭の中に、昨夜の美奈の声が響く。
「そんなもの、あるわけないじゃない。あくまでもフィクションよ、フィクション。昔の人の想像した作り話。それをいちいちまともに捉えるなんて、頭が変よ。亀を助けたら竜宮城に連れて行ってもらえるなんて、誰が信じてる?鶴が機織りしたり、雀がつづらをくれたことが現実にあって?そんなインチキ話を信じて、広島くんだりまで出掛けるなんて、ばかげてるわ。せっかくのお休みなのに。私、行かないわよ」
裕輔は思い出し、苦笑いをした。美奈の言うことはもっともだ。大概の人間は美奈と同様のことを言うだろう。
「でも、トロイの木馬の例だってあるだろう」
裕輔がそう反論すると、美奈は呆れたように鼻を鳴らし、それ以上相手にしなかった。
裕輔が「望みを叶える果実」に興味を持ったのはいつ頃だったろうか。
裕輔の記憶では、その物語は、祖父の書棚にあった古い説話集に書かれていた。子供の頃、祖父の蔵書の中でも、ある棚の一部だけは裕輔が勝手に読んでも良いことになっていた。確かその中の一冊だったと思う。少年時代の裕輔は特に読書家でもなく、勉強ができる子供でもなかった。なぜ、裕輔がその物語を読んだのかは本人もわからぬ。ただ、当時、野球少年だった裕輔が、「こんな果実があれば、僕も甲子園に出られるのになぁ」と強く思ったことが、裕輔の記憶の奥底に残った。しかしその後、大人になるまで、その果実のことなどすっかり忘れていた。それを思い出したのは数年前、サッカーのワールドカップ予選の時だった。日本代表チームが惜しくも予選で敗退し、ワールドカップに出場することができなかった。あるサッカーチームの熱烈なサポーターだった裕輔は悔してたまらなかった。その時、ふと「望みを叶える果実」の話を思い出したのである。以来、裕輔は、インターネットを通じてそれを探すようになった。そして、一ヶ月ほど前、それらしき果実を知っているとの情報を入手し、それが今回裕輔を広島へ旅立たせることとなったのだ。
新幹線の駅から在来線を乗り継ぎ、さらに車で三十分以上揺られてたどり着いた場所は、山間の盆地にある農村であった。のどかな田園風景の中に日本家屋が点在している。田植えが終わったばかりか、緑風が青い苗の匂いを運ぶ。タクシーは、裕輔を目的の家の門前まで連れて行ってくれた。生垣に囲まれた庭の奥には、農家らしく軽トラックや農耕具が見える。二階建ての家屋はやや古さを感じさせたが、近隣の家と変わりないごく普通の家であったことが、裕輔を安堵させた。
裕輔を迎えてたのは、七十代前後と思われる男性だった。
「遠い所をよくいらっしゃいました」
男性は権堂善治と言った。
権堂は客間に裕輔を招き入れると、自ら日本茶を入れた。外は汗ばむ陽気だというのに、長袖の色あせたシャツにアイロンの掛かっていないズボン。この家に女手がないことを想像させる。あらためて室内を見ると、畳は色あせ、襖には多くのしみが、床の間の置物は埃で真っ白である。
権堂は、自分の湯飲みを座卓に置くと、裕輔に向かい合って腰を下ろした。
「早速ですが、」と裕輔はお茶も飲まずに切り出した。
「どちらにあるのでしょう、その木は」
権堂はそんな裕輔を懐かしいものを見るような目をして眺めた。
「木自体は、もうないのですよ」
「ええっ。何ですって?だって、そんなこと一言も」
「まあまあ、話を聞いて下さい。木はなくなってしまったのですが、種はちゃんと残ってますよ」
「あ、ああ、そうですか、なんだ」
「ちょっと待ってください」
権堂はゆっくり立ち上がると、奥の部屋へ消えた。再び現れた権堂の手には、どこかの会社名の入った使い古しの封筒が握られていた。大切な種にしてはなんと無造作な、と裕輔は不安になった。権堂は座卓の上にタオルを広げると、封筒の中身を開けた。
「これが、その種ですか?」
種は十五個あった。
「桃の種と似ているでしょう。実もよく似てますし、たぶん、桃の一種だと思うんですがね」
権堂は種を一粒取り上げ、裕輔の手の平に載せた。裕輔が眺め回したところでは、何の変哲もない普通の桃の種だった。
「これが、願いを叶える果実の種、ですか」
裕輔の心に芽生えた疑心暗鬼の気持ちを読みとったかのように、権堂は穏やかな口調で言った。
「ええ、そうです。私自身も使ったことがありますよ」
裕輔は顔を上げた。
「え。で、それは、叶ったんですか?」
「お答えする前にその種のことを最初からお話しましょう」
権堂は、一口お茶をすすると、ゆっくり語り始めた。
「私の家は昔から農業をやっておりましてね、今はほとんど売り払ってしまいましたが、かなり沢山の畑を持っていたんですよ。その中の、裏山の段々畑に、この木が数本植わっていたのです。ご先祖様が植えたのでしょうね。家では、ナンの実、と呼ばれていました」
「ナンの実……。どういう字を書くんですか?」
「さあ、何しろ口伝えなので。その名前も本当かどうか解りませんよ。それで、ナンの実は数十年に一度しか実をつけず、生命力が弱いのか、実をつけた翌年には木が枯れてしまうのです。我が家ではご神木とされていました。もちろん、望みを叶えるという話も言い伝えられてきました。願い事を強く心に思いながら、この種を植えると、芽が出てくる頃には願いが叶えられる、というものです。願い事は他人に話してしまってはいけません。稀に芽を出さない種もあって、そういう時は、この願いは神様がお許しにならなかったのだ、と慰めました。実際、私が子供の頃にも、父が植えた種が芽を出さなかったことがあります」
権堂は一息入れた。額に深い皺の目立つ褐色の顔はいかにも朴訥そうで、嘘を言っているようには見えなかった。裕輔はこの男を信じてよいものか、まだ決めかねていた。
権堂は両手の中で種を転がしながら、話を続けた。
「戦時中のことです。私が七歳の時でした。二番目の兄に召集令状が来て、軍隊に送りだした日です。父は兄を見送った後、仏壇から種を取り出して、当時種は仏壇にしまってあったものですから、それを持って裏山に行きました。母は何も言わなかったけれど、父が掛けた願いをわかっていたと思います。無事帰ってきますように、という。戦時中はそんなこと口にしたら非国民ですからね。うわべでは御国の為に死んでこい、と言わにゃならん。嫌な時代です。……しかし、半年たっても種は芽を出しませんでした。翌年の春、兄が戦死したとの通知が来たのです。父は、その知らせを聞いた時、斧を持って裏山に行き、気が狂ったように木を打ち続けました。何で願いを聞いてくれなかった、肝心な時に役立たず、と、叫ぶ声がここまで聞こえました。その時父は、木を全て切ってしまい、種も一粒残らず燃やしてしまいました」
「えっ。じゃあ、この種は?」
「ふふ、私がこっそり仏壇からくすねたやつです。子供の頃、家族の目を盗んで一つだけくすねて、いつか役に立つかもしれないと思って取っておいたんです」
「でもここに、十五個あるということは」
「ええ、そういうことです」
「その願いは叶えられたんですね」
「ええ。でも、使わなかったほうが良かったかもしれない。……戦争が終わってしばらくして、父と長兄が結核にかかり相次いで死んでしまいまして、で、三男坊だった私が家督を相続することになったわけです。やがて私も一人前になり、そろそろ嫁でも取らにゃぁ、という年頃になりました。当時、隣村に私達のマドンナ的存在がいましてね、青年団の集まりではいつも彼女の話が出たもんですよ。私も彼女に憧れていた一人ですが、彼女は何といっても家柄がいい。到底、私んとこなんざ嫁に来て貰える代物じゃない。しかし、よせば良かったのに、若気の至りってんですかね、あの種を使ってしまったんです」
裕輔はごくりと唾を飲んだ。
「それから一カ月もたたないうちに、種から芽が出ました。私は小躍りしました。彼女と結婚できるのかと。それから間もなく、私に縁談が来ました。例の彼女です。彼女の家は由緒正しい名家だったのですが、実は借金を抱えていたのです。それで、借金を肩代わりする条件で、彼女を嫁に貰うことができたのです。彼女は従順な妻でした。私達は二人の娘をこさえ、ごく普通の家庭を作りました。特に良いこともなければ悪いこともなく、平穏に暮らしてきました。でも、妻には不満があったのでしょう。それに気付かずにいた私が悪いのかもしれません。七年前の夏、私が昔植えたあの種の木が実をつけました。私は、木が枯れてしまうのを知っていましたから、慌てて実を集めました。それがこの十五の種です」
裕輔は頷いた。
「木の方は、やはり冬には枯れてしまいました。それの前後、妻が突然、暇をいただきたい、などと言い出したのです。妻が言うには、これまで長い間私に仕えてきた、子も成した、これからは自分の人生を生きたいと。私は愕然としました。妻がそんな風に考えていたなど、夢にも思ってみなかったのです。妻は、同居していた長女一家と共に、この家を出ていきました。次女も既に嫁いでしまっていたので、この家には私一人となったのです」
「う〜ん」
裕輔は唸った。
「今ではあの種を使ったことを後悔してますよ。結局、自分の力でない力で得たものは幻のようなもの、いつか失うものなのですね。以来、もう二度とこの種を使うものかと思いましたが、人間とは悲しいものですね、いつか必要な時があるかもしれないと、今日の今日まで捨てられずにいるんですからね。でも、こうして貴方にお会いできて良かった。種は全部持って行ってください。これで私もすっきりする」