初めての温もり
その子供はまだ6歳であった。母親に乱暴に抱きかかえられ、行き着いた先は不気味な深い森の奥だった。
母親は、その子供を木の根本に押し付けるように座らせると、まってと泣き叫ぶ我が子を無視して駆け足で去っていった。子供は数日
間何も食べておらず、足は小枝の如く痩せ細っていた。6歳児とは思えないほど小さな体は、持ち上がることなくその場で崩れた。
じっとりと湿った雨上がりの森の中で、少年は息絶えようとしていた。
それから何日も経っていない。少年は、温かい暖炉の前で目を覚ました。
朦朧とした意識の中で感じるのはあの森で感じた孤独とは真逆の暖かさ、そして腹の満たされた感覚。それだけでなく、何やら、周囲からふかふかとした感触が。
驚いて目をこすると、そこには何十匹もの見慣れない生き物が尻尾を振って寄り添っていた。
「わぁあ!」
驚嘆の声に、カタリと物音がした。背後から何者かの気配がする。森の中に、木の切り株で出来たテーブルと小さなキッチンがあった。
その方角から、聞いたこともないほど優しい、男性の声がした。
「目が覚めたかい。今ココアを作ってあげるからね。」
「だ、だれですか?」
「私はヘーゲル。君こそ、誰なんだい。」
「ぼくは、けんじです。はじめまして。」
「けんじ君か。よろしくね。あぁ、ココアが出来上がったようだよ。ココアは好きかい?」
「ココアはのんだことがありません。」
そう言うと、ヘーゲルは悲しそうな表情を浮かべた。
まともな食事も、美味しい飲み物も、与えられていなかったことが想像がついたからだ。ヘーゲルはココアをかき混ぜて少し冷ますと、健児にそっと手渡した。
「あの、ぼくは、もりにいて、しんじゃったとおもったんですけど。ここはしんじゃったあとのせかいですか?」
「あぁ、そのことか。そこに羊みたいな動物がいるだろう。あの子たちが君を見つけて、ここへ連れてきてくれたんだ。だから君は死んでいないよ。大丈夫。」
ヘーゲルが羊のような生き物に目を向けると、また尻尾を振って動物たちはヘーゲルを一斉に見つめた。
その羊のような動物は、羊のようにふわふわとした被毛に覆われているが、くちばしを持っていて、鳥のようにも見えた。最初は怖かったが、ヘーゲルに懐いている様子を見ているうちに、可愛らしく思えるようになっていった。
この動物が、命の恩人…。健児は、安堵からふぅと深呼吸をした。そしてようやくココアのカップを両手で持ち上げ、一口ずつゆっくりと口に含んだ。
これまで味わったことのない、甘くて優しい味がした。不安や恐怖がまだ残っていた顔が、徐々にほころんでいくのを見て、ヘーゲルは笑顔を浮かべるようになっていった。
「ヘーゲルさんは、ぼくをどうしてここにいさせてくれるんですか?」
「…この子たちはいつも君のような子をここへ連れてくるんだ。残忍な親に捨てられた子供たちを。私は君みたいな子を放っておけなくてね。」
健児はヘーゲルの悲しそうな横顔を見て、悪い人には思えなかった。なぜ自分を助けてくれたのか、それはよくわからなかったが、美味しいココアを飲み干すとヘーゲルは優しい笑顔をこちらへ向けて、そっとカップを受け取ったのを見て、不安はすべて吹き飛んだ。
「君はまたあの両親のところに戻りたい?」
「うーん…」
「食べ物をろくに与えられず、お腹がすいて、殴ったり蹴られたりしても?」
健児の体についた痛々しい痣を見てヘーゲルは呟いた。
「いや、やっぱり、もどりたくありません。でも、ヘーゲルさんにめいわくはかけたくありません。」
「迷惑だなんて思っていないよ。私は子供たちが傷つくのを少しでも減らしたい。そのためにこの森に魔術をかけたんだ。」
「まじゅつ?」
「私と私の許した存在しか立ち入ることができない森だ。私の祖母が、この森を作ったんだ。」
見渡すと、かつて母親に捨てられたあのじめじめした暗い森とは違った、木漏れ日の差す自然豊かな美しい森が広がっていた。
「私が君をこの美しい森で、自然の中で、誰にも虐げられずに育ててあげる。でもそうすると決めたなら、この森の外には出られないよ。また両親のもとに戻りたいなら、私が干渉することではないが。」
羊のような動物は、ペロペロと健児の頬を舐めた。
「このこは、なんていうんですか?」
「アラシュアと呼んでいるよ。それぞれ名前がついている。その子はエリザベートだ。」
「エリザベート…。ぼく、このこたちといっしょにいたいです。ヘーゲルさんも、やさしそうだし…ぼくはもう、おかあさんたちのところにいきたくありません…。ここにいさせてください。」
「そうか。大歓迎だよ。さて、夕食まで散歩にでも行こうか。」
「はい!」
健児はヘーゲルの"天使の森"で暮らすことを決意した。もうあの恐ろしい家に帰らなくていい。これからはヘーゲルと、アラシュアと、美しい森の中で暮らすのだ。