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4.キヤ






 灯り取りの隙間から差しこむ夕陽が、回廊を朱く染めていた。


 先導する女官の後ろを、カラシリスを羽織り直した彼女が歩いている。そこから数歩をおいて、うつむいたキヤが歩いていた。


「……キヤ」


 ふと振り返ってそうしてキヤを呼ぶ姿は、まったくもっていつも通りだった。


 ルウ。ネフェルタリ。サトアメン。彼女の名前はいくつもある。

 しかしキヤは、ルウという名前の彼女────いいや、彼しか知らなかった。


「……し、しょう」


 躊躇いがちの呼びかけを聞いて、ルウ、いや、サトアメンはさびしげに微笑む。女官は律儀に足を止めていた。


「答え合わせを、しようか」


 わからないことだらけだろう?とサトアメンは笑った。






 歩きながらサトアメンは語った。


「わたしの母の名はイシスという。

 ワセトのジェセルケペルウという名の男の娘で、幼い頃から親同士の仲が良く、よく遊んでいた兄同然の男がいた。年頃になったら結婚させようという話が当然持ちあがっていたらしい。家も本人も、お互いに乗り気だったそうだよ。


 イシスの転機は、あるとき先王ウセルマアトラーの目に止まったことだった。

 彼はイシスを妻にと望み、そして神王(ファラオ)の権力のもと彼女を妻とした。


 イシスの嘆きがどれほどだったか、わたしは知らない。

 攫われるようにしてイシスは神王(ファラオ)の妃となり、キヤくらいの年頃になって子を孕んだ。そして産まれたのが、当代の神王、アンクケペルウラーだ。

 ……先王がどれほどイシスを寵愛していたのかはわからないが、偏愛と呼べるほどではあったらしい。イシスはその二年後には第二子を出産した。それがわたし。


 錯乱気味のイシスの状態を鑑みて、生後数日で、わたしの肩には名前の刺青が入れられた。取り替え子を防ぐための策だった。


 刺青を入れられて泣き叫ぶ赤子の声を聞いて、娘までも望まぬ結婚をさせ王家にくれてやるなどと、イシスはついに宮殿からの出奔を決めたらしい。

 その時点で、彼女はもはや正気ではなかったのだろうね。

 だって、おかしな話だと思わないか?わたしも王の子だったのにね。しかも結婚相手が決まっていたという意味では、さらわれる前のイシスとそう差はない。


 そうして、どうやったのか、イシスは宮殿を出て、ワセトにいる父のもとに身を寄せた。

 イシスはしばらくすると亡くなったそうだが、イシスが腕に抱いて逃げたわたしはそのまま、宮殿からの追っ手を逃れて、ジェセルケペルウ…イシスの父のもとに匿われて育った。


 わたしは祖父からネフェルタリという仮の名を授かり、祖母からは女としての教育を、祖父からは男としての教育を受けて育った。

 だが、当時から容姿がすでに神王(ファラオ)と似通っていたわたしは、せめてと男のなりをして生活していた。

 だから、そのころから、人前で決して上着を脱いではいけないと言い聞かされていたよ。


 そのあいまに、わたしは祖父の金属細工を見ていたんだ。祖父は変わり者で、ジェセルという通称でワセトに工房を持っていてね。

 結果的には祖父と同じ道を歩むと決めて、イウネトに工房をもらってそこに住んだ。わたしが十二くらいのときだ。


 そうして、わたしはルウになった」


 サトアメンはひどく淡々と語った。

 半ば自分のことではないような口ぶり。己の母のことさえイシスと呼んでいるからだろうか。


 くすりとサトアメンは笑う。


「わたしは、ちいさいころからすべての事情を聞かされて育った。

 そのなかのひとつに、先代と当代の神王(ファラオ)には、ひとつだけ約束事があるというものがあってね。

 先王は王家の血の薄いイシスと婚姻する代償として、必ずその子供たち同士を婚姻させるというふうに決めた」


 女官が立ち止まると、サトアメンはふと足を止めて、半身で振りかえる。


「先王が娶ったのは我が母イシスただ一人。またわたしの後に産まれた子もない。……この意味は、わかるね」


 その姿はひどく寂しげだった。


 腰布(シェンティ)を着ているのはいつも通りに男性的なのに、その姿はどうしようもなく同性にしか、キヤには見えなかった。

 その歩幅が狭くなり、その手の動きがやわらかくなったこと。伏せがちだった目が、ぱちりと開いていること。


「………っ、はい」


 キヤは唇を噛んだ。


「部屋を頼んでおいた。……このままわたしのそばにいても良いし、帰ってもいい。一晩、好きに考えると良い」


 女官が立つ場所の目の前に、管のビーズを連ねた紐を垂らした飾りがいくつも揺れていた。

 部屋───王女の部屋の入り口なのは一目瞭然だった。


「……また明日。良い夢がありますように」


 短い黒髪がさわりと揺れて、カラシリスの裾がひるがえる。

 ビーズの簾が揺れて、サトアメンの、ルウの姿がその奥に消える。


 その姿を追いかけたい衝動にかられながら、キヤは歯を食いしばった。

 もうどうすればいいのかわからなかった。


「……あの、キヤさま。お部屋にご案内いたしましてもよろしゅうございますか」


 同じくサトアメンを見送った女官の、心配そうな声でキヤははっとした。


「すみません。よろしくお願いいたします」


 キヤはすこし笑って頭を下げた。





 案内された部屋は、やはり見たこともないほど豪華だった。いっそ下働きのための部屋はないのかとキヤは問うたが、それは王女がお許しになりませんとあっさり断られた。

 カアエムウアセトが言ったとおり、自分は客人として扱われているのだということが、キヤにもひしと身に沁みる。


 果ては女官が世話をすると言ったため、キヤはさらに困惑してしまった。


「あたし……そんな者ではありません。ししょ、王女さまのところに行かれなくてよろしいですか」

「キヤさま。キヤさまが私にそのような言葉をお使いになることはありません」


 女官は品の良い笑みを浮かべてさらりと言葉を続ける。


「キヤさまはこれまで、血の繋がった方以外で王女さまのおそばにいらした唯一の方です。お食事の好み、服の好み、飾りの好み。すべてキヤさまがいちばんよくお分かりでしょう。

 そしてその情報は、お仕えする私たちにとっては何にも代えがたいものですわ」


 黄金さえ対価になります、と女官は笑った。

 キヤの脳裏に、工房でうずくまるルウの姿が蘇った。引きずられるようにして、先ほどの出来事が思い出された。



 ルウの名が、本当はネフェルタリという名の略であったこと。

 ルウが女であったこと。

 その本名は、サトアメンという名だったこと。

 ルウが王女であったこと。



 キヤは眼を閉じる。今すぐ受け入れられるようなことではなかった。

 それでも、ひとつわかったことがある。首飾りを作りはじめてから、ルウが何度も見せたあのさびしげな顔は、きっとこの別れを予想していたからだ。


「……黄金と緑柱石の飾りを、差し上げてください。果物なら柘榴がお好きです。食事なら、豆と玉葱の煮込みを。葡萄酒も、碗に一杯程度なら大丈夫です」


 絞り出すようにキヤは言った。

 女官はにっこりと笑って、伝えて参ります、と部屋を出て行く。


 キヤはひとり、うずくまっていた。







*****







 広々とした部屋、豪奢な調度。ルウはひとりため息をついていた。


 晩餐のパンは美味しかった。好物の玉葱と豆の煮込みがあること、酔いやすいため好まない葡萄酒が小さな壷ひとつ分しかなかったのは、きっとキヤがなにか言伝を託してくれたからだったのだろう。

 慣れ親しんだ味とはまるで違ったが、幼い頃に祖父母の屋敷で食べていた味とすこし似ていた。


 銀や硝子の食器が下げられた今、卓のうえには見慣れた木の箱が置かれている。首飾りを献上するのに使ったルウの小箱だった。

 この小箱は、幼いころに、祖父ジェセルがルウのために作らせたものだった。木の部分はジェセルの知り合いの細工師が、付けられた金の飾りはジェセル本人が作った。


 ジェセルはルウを可愛がってくれた。先王の血を引いてさえいなければとよく嘆いてはいたが、それでも、孫息子としてはそれなりに厳しく育て、一方で孫娘として甘やかした。ときにはしっかり者の祖母のほうが恐ろしかったくらいだ。

 回想にふけるルウの背後で、サンダルの足音が聞こえた。


「その箱、よほど気に入っておるのだな」


 ルウは無言のままで振りかえる。予想通り、神王(ファラオ)アンクケペルウラー、ルウの兄がそこにいた。

 ルウはすっと席を立ち、その場で立礼をとる。


「やめよ。そなたは我が妹にして我が妃。余の隣に並び立って許される唯一ぞ」


 言われた通り、ルウは顔をあげた。

 ルウが初めてまじまじと見たその面差しは、キヤがあれほど驚愕していたのがうなずけるほど、ルウの顔とよく似ていた。

 なにも言わないルウを見て、神王(ファラオ)は目を細めて笑う。


「アメンメセス。そう呼べ」


 アメンメセス───それはルウの“サトアメン”と同じく、生まれたときに付けられた誕生名である。彼が即位した今となってはそうそう呼ぶ者もないはずの名。


 ルウはため息をつきたくなった。どうしてこうも遊ばれているのだろう。ルウに執着する理由などないだろうに。


 ルウは確かにジェセルらのもとで育ったが、性根はほとんど庶民だった。それもそうだろう、幼いころから工房に出入りし、十二のときから五年間、完全に市井に埋もれて生きてきたのだ。

 ルウはうつむきがちになってそっと口にする。


「……アメン、メセス、様」

「様もいらぬ。ようやく会えた妹にそう呼ばれる義理はなかろう」


 なけなしの勇気を絞り出して呼んだのだが、それさえもアメンメセスは一蹴した。

 さすがのルウも眉をひそめる。


「お戯れもほどほどになさいませ」

「むぅ。そなたは固いな」


 アメンメセスは面白くなさそうにルウの顔を覗きこんだ。

 ここまでそっくりでは、鏡を覗きこんでいるのとそう違わないだろう。覗き込んで何が楽しいのかと、ルウはアメンメセスの顔を見返した。

 似すぎなほどよく似た顔だからか、こればかりはルウも萎縮しないですんだ。


「わたくしの言動が固くて、なんの不都合がございましょうか。あまり下賤の者をからかわないでくださいますか」


 きゅう、とアメンメセスの目が細くなる。

 なにか毒蛇の尾でも踏んだだろうかとルウはすこしあとずさる。


「……下賤とは、おまえの育ちのことか?」


 アメンメセスはの表情はほとんど失せていた。

 ルウがちいさくうなずくと、アメンメセスはルウの顎を掴み、強引に顔を上げさせた。


「育ちが下賤か。それにしては言動を心得ているようだが?

 おおかた、あの工房に住まう前は、ジェセルケペルウに匿われておったのだろう?我らが父は、十六年前、念入りに調査させたつもりでひとつ取り落としたらしいな。ワセトにある“アンク”の工房であったか」


 どうやらアメンメセスは自分を探し回っていたらしいということを知って、ルウは眉を寄せた。


「……よくご存知のようで」

「細作に調べさせた。調べがついたころにな、気に入っていた細工に“アンク”と似た手癖を見つけた。それゆえに調べてみたが……そなたのもとへたどり着いた」


 アメンメセスはこともなげに言い放ったが、ルウは内心呆れかえった。

 ふとアメンメセスの手が離れる。


「王国の古き伝統に則れば、第一王女の夫こそがこの国の神王(ファラオ)となる。それは知っていたか?」

「……いいえ」


 ルウは反射的にそう答えた。しかし、その言葉の意味が頭にしみてくるにつれて、ルウの平静が崩れていく。


 ルウは目を見開き、唇をわななかせていた。


「余がそなたを探した理由がわかったか?」

「…………は、い」

「理由のひとつはその通り、余の王権のためだ。もうひとつは、妹を妃とするという、神の御名のもとに交わされた約定に従うため。

 最後ひとつは完全に私情だ。幼すぎた余は血を分けた妹の顔を覚えていなかったからな、どうにかしてそなたに会ってみたかった。どんなに愛らしかろうと、ずっと夢見ていたとも」


 アメンメセスの指が、不躾にルウの頬をなぞった。

 ルウは抵抗しない。


「……やはり余と同じく、我らが父に似たのだな」


 楽しげな、鏡合わせのようによく似た顔を見つめながら、ルウは囁くように言った。


「アメンメセス、あなたと同じだけの血がわたしにも流れているのですから」


 確かに、第一王女の夫が王になるという古の風習のことを、ルウは知らなかった。

 それでも教えられていたことがある。知っていたことがある。



 なにがあろうと、兄以外の夫を持ってはならない。なにがあろうと、兄以外の子を孕んではならない。


 まず、ルウの身体に流れる王家の血は濃すぎる。民間に流出させることは許されない。

 それだけではない。

 アメンメセスが語った神の御名のもとに交わされた約定は、ルウのことをも縛っている。

 アメンメセスの妃が姉妹でなければならぬというなら、アメンメセスの唯一の姉妹たるサトアメンは必ずアメンメセスの妃にならねばならない。


 ルウはサトアメンである。だから、生まれながらに約定に縛られた娘だった。そのことは幼いころから何度も何度も聞かされて育った。



 ルウの顎をつかんでいたアメンメセスの手には、もはや大した力は入っていない。代わりにその手はルウの頬を覆っていた。


「美しく、愛らしいそなたを……ネフェルタリ(うつくしきもの)、と……そう呼んでも良いか」


 すこし躊躇いがちにこんなことを問う、自分とそっくりの顔。やさしい手の感触。


 まるで霧が晴れるような心地だった。

 この男はたしかに己の兄で、ぎこちなくもきっと己を愛している。たったこれだけの対話でも、なんとなくそれが察せられた。



 ルウは笑った。

 もう何年も呼ばれていなくとも、ネフェルタリとは、確かに自分の名だった。



「サトアメンでも、ネフェルタリでも、ルウでも、どうぞお好きに。サトアメンと呼ばれても、反応できませんが」


 アメンメセスは嬉しそうに笑った。


「……ならば、良い。ネフェルタリ」

「はい」


 良い、とアメンメセスはもういちど言うと、ルウの額に唇を落とし、そして部屋を去っていった。

 変な兄だとルウは苦笑した。






*****






 キヤは寝台の上で目を覚ました。

 いつもと違う天井と寝台。数秒かけて、キヤはここがどこなのかを理解した。


「…………師匠」


 昨晩、疲れて意識がなくなるまで考え尽くした。


「……師匠に、会いたい」

「王女さまにお会いになりますか?」


 キヤは飛び起きた。


 いきなり声をかけてきたのは、昨日の女官だった。寝台からすこし離れたところに彼女は居り、飛び起きたキヤに向かって一礼する。


「おはようございます、キヤさま」

「お、おはようございます……びっくりしました」


 キヤはため息をつきながら、寝台を降りて立った。


「まず水と祈りを。それが終わられたら、王女さまのところへご案内いたします」

「わかりました」


 女官の言葉にキヤはうなずき、おずおずと示された椅子に座った。





 水をいただき、祈りを捧げて、キヤは近くの部屋に案内された。ビーズの簾がかけられたあの部屋だった。


「アニでございます。キヤさまをお連れしました」

「どうぞ、入って」


 すこし平坦な声は、まさに聞き慣れたルウの声で、キヤはぎゅっと手を握りしめた。


「失礼いたします」


 女官の先導のもと、部屋に入る。

 すこし離れたところに卓があり、そのそばに置かれた椅子に座って、ルウは柘榴をつまんでいるところだった。

 むぐむぐと好物の柘榴を噛み潰す様子は、普段との差異こそあれど、見慣れたルウの姿だった。昨日と同じ服装なのも要因のひとつだろう。


「……師匠、食べ過ぎないようにしてくださいね。ご飯が入らなくなりますよ」


 いつもどおり言ってしまってから、あ、とキヤは口を押さえた。

 女官たちはなにも言わず、当事者のルウは面白そうに笑った。女官たちはキヤの物言いに口を出すつもりはないらしい。


 ルウは口の中の柘榴を飲みこむと、ひどく軽やかな口調で訊ねた。


「キヤ、心は決まった?」

「あっ、えと……はい」


 やろうと決めてきたことが頭によみがえり、キヤはすこしうつむく。

 ルウはおいで、とキヤを手招いた。


「キヤは、どうしたい?

 昨日も言ったけれど、イウネトに帰るなら、あの工房はキヤが使えばいい。ここに留まるなら、役職が与えられる。行きたい場所があるなら、そこへ行けばいい。ワセトのジェセルのところなんかもおすすめだよ」


 ルウの、選択のすべてをキヤ自身に委ねると決めた声を聞いて、キヤは首を振った。


「実は……告白を、しようと思いまして」

「こく、はく?」


 ルウがきょとんと首をかしげた。

 大人びたルウの、こういう仕草だけは、歳相応どころか年齢以下にさえ見えそうなほどあざとい。キヤはそれを何度も見てきたからよく知っていた。

 キヤはすこし照れくさげに目を細める。


「昨日、師匠に言われて、考えました。

 この先どうするか。家のこと、師匠のこと、いろいろと。

 でも結局、あたしは、師匠が“師”だから、師匠のおそばにいたわけじゃないんです」



 キヤは、北の商人の血を継いでいる。とある北の商人の娘を娶った男が、キヤの祖父だった。


 そのよしみで商人との付き合いの多かったキヤの両親は、商人との取引のために家を空け、そのとき、盗賊にもろとも殺されたらしい。

 家にたった一人残されたキヤは、長くは生きて行けなかった。ある程度の躾や教育はされていたとはいえ、自分で自分の食い扶持をまかなうなど到底無理だった。


 待てども待てども家族の帰らない家に居られず、ふらふらと家の外に出て、キヤは奴隷商人に目をつけられた。

 キヤの眼が原因だった。母から受け継いだ蒼い目は、このケメトではそうそう見ることのない色であり────捕虜奴隷の持つ色だったから。

 終わった、とキヤはそのとき思った。

 それなのに、道の後ろから声がしたのだ。


「ああ、ようやく見つけた。どこに行っていたの」


 すたすたと、変な布を纏った人がキヤに近づいてきたのだ。はっきり言ってものすごくあやしかった。

 だが、その人はためらいなくキヤのそばに膝をついて言った。


「あぁもう、またこんなに膝を汚して。また母様に叱られるよ」

「う、ふぇ」


 この時点でキヤの涙腺は決壊した。

 奴隷の子ではないのだと、言動で示そうとしている。この人は神様かと思った。


「おめぇ、この娘の身内か?」

「大事な妹だよ。追いかけられたくないから、名前は教えてやらない」


 ぶっきらぼうに奴隷商人に告げながら、キヤを抱きしめて庇ってくれた。


 ルウが、仮初めでも、大事な妹だと言ってくれた瞬間に、キヤは救われた。

 帰ってこなかった父母。なにもなくなった家。さびしかったのだとようやくわかって、キヤはひたすら泣いた。


 ルウにしがみついてギャン泣きするうちに、奴隷商人はどこかへいなくなっていた。


「泣かないで。家はどこ?送っていこう」


 戸惑ったようなルウの声を聞いて、泣きすぎで喋れなくなったキヤは首を振った。


「……でも君、奴隷の子ではないよね。家はないの?」


 頷いて、しゃくりあげながらぎゅっとしがみついたら、ルウはそのまま抱きあげて、連れて行ってくれた。


 キヤが十、あれほど大人びて大きく見えたルウが、十四のときの話だった。

 そうして、キヤはルウの家族になった。



 あたたかな衣食住を与えられてキヤが泣いたのはその日の話、その技術を与えられ、またキヤが泣いたのは数日後の話だ。



「三年前のあの日、奴隷商人捕まりそうになっていたあたしを拾ってくれたのは、他ならぬ師匠です。衣食住を与え、技を与えてくださったのは師匠です。あなたに拾われたあの日から、あたしにとって、あなたこそがあたしの神でした。

 だからあたしは師匠を師匠と呼んで、師匠のおそばにいるんです」


 静かな室内に、自分自身の声以外は聞こえない。そのことがキヤにはひどく恥ずかしかったが、それでも、言うと決めたのだからとキヤは話した。


「……こんなことを言うのは、烏滸がましいのかもしれませんけど。

 師匠はあたしにとって、たったひとりの家族で、兄であり……姉でもあり、……あたしの恋する人で、愛する人です。師匠が師匠である限り、それは変わりません」


 盲信的だと、キヤ自身でさえも思う。

 それでも良い。片思いでいい。兄でも姉でもかまわない。

 一生かけてそばにいたい。その思いは揺らがなかった。


「なので、師匠さえよろしければですが、またおそばにおいてくださると嬉しいです」


 にっこりと笑ってみせる。


 ルウは半ば呆然としていた。何度かそのまぶたがぱちぱちと瞬いて、そして、ようやくその唇が笑みの形を描く。


 カラシリスの裾を揺らして、ルウは席を立ち、そっと腕を広げた。


「おいで、キヤ」


 たた、とかるく体当たりでもするようにして、キヤは素直にルウに抱きついた。

 ひさしぶりにルウの腕の中におさまって、キヤは泣きそうなほどの幸福に笑った。


「キヤ。前にお嫁に来ないかと聞いたね」

「っ、はい」

「キヤがもしそうすると決めたなら、全部言おうと思っていた。全部言って、これからも男として生きていくわたしのそばにいてほしいと言おうと思っていた。

 わたしのかわいい、大事な妹。こんなことになってしまったけれど、これからもそばにいてくれる?」


 ルウの声は、三年前から変わらずやさしい。


「……ほんと、師匠はあたしに甘いですね」

「できた妹を甘やかして、なにか悪い?」


 楽しそうにルウが笑った。キヤも笑った。






…………………百合百合しい。とても、百合の香りがする。勝手に百合が生えた……

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