3.ルウ
朝一で出そうと思ってたのに寝坊した……
およそひと月後。
ルウはようやく、目に見えて回復していた。
自力で寝起きしたり、荷物さえ重くなければ多少買い物に出たりと、普通の生活が営めるようになってきている。船が揺れたときなどに手をついたとしても、これならば多少は耐えうると判断できるほどに。
「そういえば師匠、そろそろ宮殿まで行けそうですけど……行きますか?」
自宅の横に接続されている工房で、次の作品の図案を地面に引っ掻くルウの背中に、汲んだばかりの水甕をかかえたキヤが問うた。
ルウの答えはなかった。よほど集中しているのだろうかとキヤは思ったが、よく見ると手が止まっている。
「師匠?」
ルウのため息が聞こえた。
「……まだ行かないよ」
「え、行かないんですか?もうずいぶん良くなりましたから、船にも乗れそうなのに」
キヤは意外そうに訊ねた。ルウの苦笑が聞こえる。
「キヤは行きたい?」
「はい……やっぱり、神王の宮殿なんてそうそう見られるものでもないですし……」
「そっか」
ルウはそれだけ言ってもういちどため息をついた。地面を引っ掻いていた石を置き、ルウは言う。
「そろそろ、献上する首飾りの続きをやろうと思う。完成したら、宮殿に行こうか」
「え、首飾り……完成させてから行くんですか?」
キヤはきょとんと首をかしげた。首飾りの細工は、もっとしっかり治ってからするものだと思っていたらしい。ルウは立ちあがると苦笑しながら言った。
「完成させるよ。だって、これがわたしの最後の作品になるかもしれないんだから。全力で完成させて、それを持って参上するよ」
「最後、って……まあ、そうですけど」
うっかり神王の機嫌を損ねでもしたら、あっさり処刑されてしまいかねないのである。
キヤはため息をついた。
「そう考えると、なんか行きたくなくなりますね」
「まあね。でも行かなかったらそれこそ確実に死ぬよ」
ルウはそんなことをさらっと言った。そして、ちょいちょいとキヤを手招く。ちょっと見てくれる?とルウは地面に描かれた絵をキヤに見せた。
キヤが覗きこむなり息をのんだそれは、神王の妃に捧げる首飾りの意匠であった。
「儀礼用にもなるラピスラズリを列にした飾りも良いけど、そういうのはきっと御用達のワセトの工房が作っているだろうし、きっと代々使われてきたものもあるだろうからね。
こんな変わり種も、普段使いにならいいかなと思ってね。どうだろう」
金の鎖に、いくつもの金の板を等間隔に吊ってある。正面あたりにだけその板がなく、代わりにもっと細い金の板がいくつかつるされ、動けばきっと涼やかな音がするだろう。
「すごく……素敵です。従来の首飾りよりも、こっちのほうが師匠の技も活きますし……あたしはすごく良いと思います」
「キヤの目で見てもおかしくないなら、これで良いかな」
従来の、儀礼用にもなるものと迷ったけれど、とルウはつぶやく。
「まあそもそもこんなところに依頼を出すわけだから、そもそもはなから儀礼用のなんて求めていないだろうしね」
ルウはそう言いながら、地面に描かれた絵をさらさらと消しはじめた。キヤがあわててその手を止めさせる。
「消しちゃだめじゃないですか!!」
「ん?ああ、これは頭の中にあるから平気だよ。ずっとこれに占拠されてるくらいだ」
「ならいいですけど……」
キヤはルウの手を離した。さらりさらりと絵が消えていく。
ルウが“頭の中にある”というのは、しっかりと腰をすえてかかるような大作の意匠を、ルウは基本すべて頭の中でまとめてしまうからだった。それにより、ルウの頭の中には、過去にルウが作った大作の意匠はすべて記憶されている。
もっと言えば、ルウはときどき作りたい意匠がおおよそ頭の中にふと浮かぶらしく、その意匠をどんどん改良したりしていると止まらなくなる。だから“頭の中が占拠される”などとルウは言うのだ。
キヤにはそういうことはまったくない。やはりルウは天才だとキヤはひとりうなずいていた。
「師匠はやっぱりすごいです」
「そう?……ハトホル女神の御加護でもあるのかな」
ルウはきょとんと小さく首を傾げていて、キヤはすこし笑った。
ルウにあまり自覚はないが、そもそも十七という年齢で“ハトホル”に登りつめているという時点で、尋常ではない。それこそハトホル女神に目をかけられているなんていう言葉が本当ではないかと思えるくらいには。
キヤも、年齢のわりにはよくできているという自負はある。だが、ルウはキヤにとっては届く気のしない高みだった。
キヤは笑った。
「師匠は、すごいですよ。たとえ師匠はそう思っていないのだとしても」
そう言ったキヤがそわそわと見つめる先で、ルウは木槌を手に取った。久しぶりに、ルウの技が振るわれるのだ。
ルウは、木槌を軽く手の中で滑らせ、感触を確かめるようにかるく振った。
金の板を引き寄せて、なんでもないような仕草でルウは細工を開始する。
──────その日、キヤは初めて、ルウの本気を見た。
並べて置かれた、簡素な寝台に二人して寝転がる。
キヤも、今日はルウを作業場からひっぺがすにかつてないほど苦労した。それほどルウは集中していた。
「……師匠、いままで手抜きしてたんですね」
寝物語でもするように、キヤは言った。
「手抜きはしていないよ。これまでも力を尽くして来たつもりだ」
ルウは微苦笑してそう答える。
「ただ、今回のは……全力以上を傾けている。
ただ作るのではなく、さらなる技と美しさを得るために。いまのわたしに作り得る最上を作るために。だからいつもよりも気合いを入れてみただけだ」
さっきまで鬼気迫る様子で金を打っていたとは思えないほどの穏やかな口調だった。
ひたすら金を叩き、形を整え、模様を刻み込み、それをただひたすら続けていた。ときにはやり直しさえしながらである。
「気合を、入れた……なるほど」
キヤはようやくすこしうなずいた。ルウはそのつぶやきにくすりと笑うと、それっきり、すぐに寝息をたてだした。
眠るルウの顔は幼げで、キヤはひどく不思議な気持ちになった。
あらかじめ作ってあった金の鎖に、輪を作って下を溶接した金の板をいくつもつるす。
大きい方の金の板は神聖文字の『ネフェル』の形に整えてあり、その上で細かい細工が施され、ラピスラズリが嵌めこまれている。
小さい板は小さい板で、長細い形にしてあり、細かくヒエログリフを彫ってある。
大きいものは動かないようにかるく叩いて固定し、小さいものは揺れるに任せてある。しゃらりしゃらりと音が聞こえた。
「うん、いい出来だ」
満足げにルウはうなずいた。
しゃらり、と音を立てたそれを、綺麗に亜麻布で丁寧にくるんだ。飾り気はないが、それでもイウネトで手に入るうちでは最上級の布だ。
それを、木箱に入れる。
「あれ?師匠、その木箱って……どこから?」
どこにも頼んでないですよね、とキヤが首をかしげる。ルウは静かに微笑みを返した。
「わたしのだよ。祖父がわたしにくれた」
キヤは仰天してルウの手元を覗きこんだ。
しっかりと油を塗られて手入れをされ、艶のある小箱だった。上質な木材を丹念に削りこんだ細やかな細工が施されており、付けられている装飾の金具も、名のある細工師がやったのだろうとわかる出来栄えだった。
キヤは思わず叫んだ。
「────なんで使っちゃうんですか?!?!」
「わたしが、そうすべきだと、そうしたいと思ったからだよ。それに、ワセトの有名な工房が手がけた作品だから、問題もない」
そう言って、横に置いた蓋をルウは手に取り、そっと蓋を閉めてしまった。
「師匠…………」
「いいんだ。これがいちばん良い」
ルウはすこしだけ寂しそうに蓋を撫で、それからそれをまた適当な亜麻布でくるんだ。
「キヤ。おつかいを頼めるかな」
「カアエムウアセトさまのところですか?」
「うん。明日の朝、船着き場に赴くと伝えてくれるかな」
「はい」
ルウの頼みにキヤはうなずいた。
「ついでに、屋敷の人に手を借りて、服を新調しておいで。その服も、丈が合わなくなっているから」
確かに、キヤの着る服はすこしばかり短めだった。本来足首までのはずが、すでに脛が見えている。
キヤの背丈も氾濫期のあとの葦のようにするすると伸びていたから、仕方がなかったのである。
「……わかりました」
「神王の御前に出ても良いものを見繕ってもらいなさい」
対価はツケにしておいて、とルウは言った。ルウがツケにすることは滅多にないが、今回ばかりは話が別だ。献上品の首飾りを作ったため、ルウの資産はだいぶカツカツである。
「あの、師匠はどうするんです?」
「うん?」
「いえ、ですから、師匠も服を新調したほうが良くないですか?」
キヤがそう言えば、ようやく合点したというようにルウはうなずいた。
「服はね、あるよ。襞がたっぷりついていてね、一張羅にしなさいと祖母がくれたものだ。大きさも心配ないから、わたしのことは気にしなくていいよ」
「なら、良いですけど……」
「うん。行っておいで」
ルウは安心させるようにルウの頭に手を乗せた。
大人しくキヤはぱたぱたと準備をはじめ、しばらくすると出かけていった。
それを見送って、ルウはふとため息をつく。
ルウは首元に手をかけ、幾重にも巻きつけた布を、するするとほどいていった。
キヤが出かけているときにしか、できないことだった。
だって─────ルウの身体には、こんなモノがあるのだから。
布を完全にほどいて、ルウは自分の肩のあたりを見つめた。そこにあるのは、くっきりと残る刺青。
「……やっぱり、消えないか」
いつも巻いている布と同じ形のカラシリスの上から見えないといい、とルウはそっと目を閉じた。
*****
翌朝、二人は船着き場にいた。
カアエムウアセトはまだ来ていない。ルウとキヤは木陰に佇んでいた。
キヤが呆れたようにいう。
「というか師匠、カラシリスなんて持ってたんですね」
カラシリスは、豊かな資産を持つ上流階級で流行している、透けるような木綿の布地だった。
多くは上着に使われるが、ルウはいつも巻いていた布と同じようにカラシリスを巻きつけている。無論、ルウが無造作に纏うそれも高価なものだった。
ルウが身につけるもう一つのもの───シェンティと呼ばれる腰布も、いつにもまして襞を取った豪華なものだ。
「これは祖母がくれたものだよ。シェンティと合わせて使えるだろうと。……使う機会がそうそうあるとは思っていなかったけどね」
使うとしたら、里帰りするときだろうと思っていた。ルウはそう言って笑った。
「キヤもよく似合う。美人が際立っているよ」
首飾りの箱を抱えたキヤが着ているのは、いくらか襞を取った白い服だった。肩から釣る一般的な形をしている。飾り気はないが、しっかり化粧を施したキヤの華やかな顔立ちが際立っていた。
キヤは美人である。歳はまだ十三と幼さが残る顔立ちと体躯だが、それでもくりっとした垂れ気味の、空のような蒼色の猫目に、つんとした鼻筋を持っている。
それに肩下で切りそろえた後ろ髪、眉あたりでぴったりと切りそろえられた前髪。耳当たりの髪だけがひときわ黒く長く腰あたりまで伸びており、そこだけがそれぞれしばってあった。
つまり、大変可愛らしいのである。
「いえあの、ありがとうございます……」
キヤは嬉しそうに頬を染めたが、一つだけ訂正を入れた。
「私が美人なら、師匠はもっと綺麗だと思います」
ルウはきょとんと首をかしげた。
キヤはあからさまにため息をついた。実際、ルウはあまり自覚していないが美しい外見を持っている。
ほんのすこし、垂れたような切れ長の目尻に、逆に釣り気味の眉は、化粧が薄いのだけが残念な点だろう。頬の輪郭には歪みも必要以上の無駄もない。
伏せ目がちで落ち着いた表情なのが、すこしばかりルウの実年齢をわかりにくくさせている。薄めの色彩の、琥珀のように輝く瞳も、その不可思議な印象を加速させているだろう。
黒髪は一般的な長さよりもすこし長く、肩に触れるかどうか。一種中性的な外見ではあるが、美しくないなどとはこの造形を作った神への冒涜である。
そんな姿に襞の多いシェンティとカラシリスなど纏うから、本当にどこぞの貴い方の息子ではないかと思えてしまうくらいだ。
「なんで師匠はそう、外見の自覚がないんでしょうね」
「いや、そういうわけではなく。キヤの方が可愛くて良いと思う」
さらにキヤは頬を赤くしたが、それ以上の反論はしなかった。
ルウはキヤの頭を撫でる。近頃はようやく好きなように手を動かせるようになったからか、前にもましてルウはよくキヤの頭を撫でていた。
ふと、砂を踏む足音が聞こえて、ルウとキヤがそちらを向く。
「カアエムウアセトさまがご到着なさる。こちらへ来られ…よ……」
目をまんまるに見開いているのは、カアエムウアセトの側近のイニイだった。
「……貴殿が……工房のあるじ殿か」
イニイもルウとは面識はあったものの、それは工房の下働きとしてである。よもやルウが工房のあるじとは知らなかったのだ。
「いかにも。わたしが“ハトホル”のあるじだ」
「……謀ったか」
イニイは苛立たしげに目を細めたが、ルウは泰然と笑った。
「いいや、わたしはひとことも下働きだと自称したことはない。
わたしが本当に工房のあるじかどうか不審に思うなら、我が家の工房を訪ねるといい。わたしたちふたりぶんの道具しかないよ」
しばし、笑顔のルウとしかめっ面のイニイはにらみあったが、すぐにイニイが踵を返した。
「いまさら疑っても仕方あるまい。
……こちらだ、来られよ」
ルウとキヤはおとなしくついていった。
イニイが船着き場までを先導すると、ちょうど輿に乗ったカアエムウアセトが来るところだった。
イニイが真っ先にその場に片膝をつき、ほぼ同時にルウがなめらかに片膝をつく。ぎこちなさの残る動きで、最後にキヤが膝をついた。
「立ちなさい。イニイはもちろんだが、そなたらも今日は客人だ、そうした礼は必要ない」
カアエムウアセトの言葉を聞いて、三人がようやく立つ。
立ち上がったルウの顔を見てカアエムウアセトは驚いた顔をした。
「そなたが、ハトホルのあるじか?ずいぶんと若いようだが……」
「十七の若輩者ですが、皆様に認められ、ハトホルの席に就きましてございます」
まるで、低音ハープのゆるい弦を弾くような柔らかさでルウは答えた。
「若いな!さように若くしてあの細工をやってのけるとは、素晴らしい!これからも頼むぞ」
カアエムウアセトは上機嫌でルウに声をかけたが、ルウは軽く頭を垂れただけで答えなかった。
しかしその非礼も咎められることはなく、一行はイテルをくだる船に乗りこむ。
イニイともう二人、若い男と一人の女がルウとキヤの乗る船に同乗した。
「パケレスと申します。ご不便なことがございましたら、申しつかるようにとあるじから命ぜられております。何かあればおっしゃってください」
「わたくしはアセトと申します。パケレスと同じく、何かありましたら、特にキヤさまはいつでもおっしゃってくださいまし」
カアエムウアセトは、若い娘のキヤがいることに気を遣ってアセトを配してくれたらしい。ルウとキヤは素直に礼を言った。
船旅は、暑いこと以外は快適だった。ルウとキヤは供された軽食と水をありがたくいただいた。
くだりだからかすいすいと船は進み、あっというまにワセトの船着き場についていた。
船から上がるときにキヤがふらつくようなこともあったが、ルウが支えたので問題はなかった。
そのまま一行はワセト郊外の宮殿へと向かう。
やはり水の飲みながらの道行きだったが、太陽が中天にたどり着くころには宮殿に着いた。
壮麗なる神王の宮殿。
イウネトの大神殿とそう変わらない大きさがあるのではないかというような大きさの神殿である。
様々なところに見事な彩色が施され、美しく削られた柱があり、見ているだけでも圧倒されるような建物だった。
ルウとキヤが無言で宮殿を見上げている間に、カアエムウアセトは輿を降りている。
「神王のおわす宮殿だ。どうだね、初めて見た感想は」
言葉もないふたりを見やり、カアエムウアセトはすこし笑った。
「行こうか。神王はまだお会いにはなられぬだろうが、ここで立ったままとはいささか暑い」
先導が歩き出す。カアエムウアセトとそのお供もそれに続いた。イニイに背を押され、ルウとキヤもそれに続いて宮殿の中へと進む。
すぐに侍従が現れ、彼の先導のもと、広い宮殿のなかを進んだ。
この時点でルウとキヤはカアエムウアセトとは離され、ふたりだけ別室に案内される。
陽が傾き、涼むまでお待ちください。侍従はそう言って去っていった。
カアエムウアセトから離されて別室にわざわざ案内されるとは思っていなかったキヤは混乱してその場に立ちすくんだ。
客室と思しき部屋の中には卓があり、たっぷりと水の入った水差しがある。青く彩色された碗まであり、おそらく好きに飲んで良いのだろう。
だがそれ以上に、キヤにとってはそのそばに置かれたつやつやの無花果の方が驚愕であった。薬になるはずだが、こんなところに無造作に置かれていていいのか。
「キヤ。立ってないで座ったら?」
ルウがすこしおかしげに言った。
ルウはキヤと違い、気にすることなく椅子に座ってくつろいでいる。いつもよりも所作を気にしているのか、すこし動きがゆったりとしていた。
その様子は、服装や顔立ちと相まって、やはりどこかの貴い血筋のようでさえある。ちょっとはまり過ぎなくらいだった。
キヤは困惑したが、それでもおとなしく卓のそばの椅子にすとんと座った。
「……師匠は、緊張しないんですか?」
「しているよ。ただ、こういう贅沢さには多少の慣れがあるだけ」
ルウは優雅に肘をつき、懐かしそうに目を細めた。そういえば、ルウは屋敷で育ったのだったとキヤは思い出す。
「気にしなくていいよ。いっそ寝て待ってもいいくらいだ。キヤが気にすることはなにもない」
ルウはどこかさびしげな笑みを浮かべてキヤの頭をなでた。
「師匠?」
「なんでもないよ」
ルウの様子は平時とはすこし違い、キヤは戸惑ったようにルウを見つめたが、ルウの表情は、すこし寂しげではあれどいつも通りのやわらかな笑顔のままだった。
なにをするでもなく時は過ぎ、陽が傾きかけて酷暑がやわらぐころ、ようやく一人の侍従がふたりを呼びに来た。
「神王がお会いになられます。こちらへ」
広々とした長細い部屋の遠くに、ひとつ置かれた玉座が見える。そこは下座よりも二段ほど高く、距離はおよそ十五歩といったところだろうか。
一瞬、キヤは自宅兼工房の広さを思い浮かべた。おそらく広さはここと大差ないだろう。空恐ろしいものである。
「神王がおいでになるときは、声がかかります。跪いてお待ちください」
「承知しております」
ルウが静かに答えた。キヤも、ルウの様子を真似すればなんとでもなるとうなずく。
いくらもかからずに神王の来臨を知らせる声が聞こえ、ルウが跪く。その左後ろで、キヤも同じように跪いた。
パピルスのサンダルが地面を踏む音。ルウとキヤの素足の足音とは違う音がする。
足音が止まり、さらりと布地が擦れる音がして、神王が椅子に座ったのがわかる。
離れていても察せられるほどの、傲然たる威圧感がそこにあった。
─────これが神王。
「そなたらが、イウネトの工房の者か」
唐突に、声が降ってくる。
「よくぞ我が前へ参った。
直答を許す。そのほうが、工房のあるじか」
若い、声だった。キヤよりは年嵩だろう。だがルウとはさほど変わらないのではないだろうか。
ルウはどう答えるのだろうかと、キヤはごくりと唾を飲みこむ。
「はい。わたくしめでございます」
「左様か。して、頼んだ首飾りはどうなっておる」
「は、ここに。……キヤ、前に箱を置きなさい」
後半は小声で、ルウは言った。キヤは言われた通り、木箱をそっと前に差し出す。
「マヤ、それを此方へ」
命じられた侍従が小走りで寄ってきて、キヤが置いた小箱を持ち去った。
侍従が小箱を捧げ持ち、蓋を開けようとする。その手を、腕輪をしゃらりと鳴らして神王は止めさせ、手ずから箱を受けとった。
「……ふ、おまえもようやく腹をくくったか?」
神王は笑みを含んでつぶやいた。
伏せた頭のしたで、キヤはそれはどういう意味かとしばし考える。
ルウは微動だにしなかった。
神王は蓋を開け、亜麻布ごと首飾りを持ち上げる。巻きつけられた亜麻布を無造作にほどき、彼は黄金の首飾りを目の前に垂らした。
ほう、と神王は感心したような吐息をもらす。
彼はしばしその飾りを丹念に眺め、そしてくつりと笑った。
「良いな。非常に斬新である。伝統を無視していると喚く輩も居ようが、それにしては神聖文字の扱いも心得ておるし、なにより鎖の細工も美事なものだ。
斬新なものはときに新たなる恵みとなろう。余はこれを良きものと思う」
神王が立ちあがる。木箱を椅子に置き、無造作に首飾りを手にしたまま神王は言った。
「良かろう。名乗るが良い、そなたらの名は余が記憶するに値する」
ルウの額が地につくほどに垂れた。
「……ルウ、と申します。それはわたくしめの弟子で、キヤ、と」
「そうか、では二人とも面をあげよ」
神王は傲然と言い放った。
キヤは恐る恐る顔をあげたが、ルウはそれよりもさらに躊躇いながら顔を伏せがちにしつつも、一応はといった体であげる。
まず顔をあげたキヤは、ルウが自分よりもためらっていることにしばし疑問を覚えた。
そして玉座の神王を認めて、刹那─────キヤは目を見開いた。
「ルウ、と申したな。まことの名を申せ、嘘はそなたのためにはならぬ」
神王は笑っていた。
心底楽しげに、笑っていた。
その顔に、キヤはひどく見覚えがある。
黒い髪、肌の色、目の色、その頬の輪郭に目の形。この三年、変わらず毎日見続けた顔によく似ていた。
ルウが今度こそ、顔をあげる。
「…………ネフェルタリ、と、祖父が名付けました。ですから、ルウ、と渾名されております」
ルウは目を伏せていた。キヤは唇をかすかにわななかせ、そして失態を見せまいとするかのようにキヤは顔をかるく伏せる。
ははは、と神王の楽しげな笑い声が聞こえた。
「強情だな」
どうなる、とキヤは歯を噛んだ。師が、ルウがなんの失態をおかしたと言うのだ。
似ているからか。似ているからなのか。キヤは強く奥歯を噛みしめる。
「良かろう、そなたがそうも強情に言うのならば、余にも考えがある。
────アンクケペルウラーの名において命ずる。ネフェルタリを自称する者よ、その上着を脱げ」
ルウが躊躇ったのが、キヤにはわかった。
上着を脱ぐのを、ルウは異常なまでに嫌っている。キヤはそれをよく知っていた。
だが、ルウはそれでも首元に手をかけた。
上質なカラシリスが解かれていく。細い端から、だんだん幅を増やしていくルウの布。頑なにルウが解こうとしなかった布が、するするとほどかれていく。
キヤは、それを声もなく見つめていた。
声など出せようはずもなかった。
あらわになる細い首。華奢な肩。神聖文字の刺青。そして─────わずかに膨らんだ胸元までもが。
神王は笑う。
「まだ、強情を張るか?我が妹よ」
ひゅっ、とキヤは息を呑む。
男性らしくない化粧を施した神王の顔。こうべを垂れたままのルウの顔。ありえないほどよく似たその、ふたつの顔。
ルウは細くため息をついて、肩の刺青をなでた。
それが────そこに刻まれた文字は、ルウの名前だった。
「……わたしの生誕に際して付けられた名は、サトアメン。わたしの……わたくしの名は、サトアメンと」
キヤは、目を閉じてその言葉を聞いた。
耳をふさぐことはできなかった。




