閉ざされた心
月曜は憂鬱だ。通勤通学の人々が深いため息をつくのがよく目につく。
教室の窓から差し込む光はいつもよりも強く、眠りの邪魔をする。
「じゃあ、次の問題を……橘」
太陽が雲に隠れ、ようやく眠りにつけると思った途端にこれだ。
「分かりません」
「橘、お前今ボーッとしてただろ。気を付けろよー。ここテストに出るからな」
「……はい」
雲に隠れていた太陽が再び顔をだし、強い日差しが俺を寝させないようにしているかのようだ。
昼寝を諦めた俺は教室の窓から見えるグラウンドに目を向けた。
体育の授業が行われていた。体操着の色からして1年生だろう。1年生で知っている人といえば、最近入部してくれた成瀬さんくらいしかいない。つまらない授業の暇潰しに成瀬さんを探してみるものの、最後まで見つけることはできなかった。
心地よい太陽の暖かさを感じながら何度かウトウトしていると授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、ハッと目覚める。
「よっす! 学食行こうぜ!」
授業が終わり、すぐに話しかけてきたこいつ、早乙女彰は、気だるく、憂鬱な俺の気持ちをより一層沈めた。
「あれ? いない?」
その異変に気づいた俺は周辺を見回す。
成瀬さんとは月曜に前と同じ席で、また一緒にお昼にしようと約束をしていたのだが、今その食堂には成瀬さんの姿がなかった。
「おう? 避けられてんのか~?」
ニヤニヤといつものようにからかう彰。
「は? そ、そんなわけないだろ、多分……。別に怒らせたわけでも喧嘩したわけでも無いんだし」
「でも日曜は慌てるように帰ってたろ~?」
確かにそうだ。日曜、俺の家(正確には沙織さんのだが)で楽しそうにしていた成瀬さんは、通話を終えると慌てた様子で帰っていったのだ。
「何か用事があったんだろ。部室行く前に成瀬さんが休みなのか聞きに教室へ寄ってみるよ」
「あいよ。任せた」
午後の授業もいつも通り寝て過ごし、御門先生の長いホームルームも終わった放課後。
俺は約束通り、部室へ行く前に成瀬さんのクラスへと向かった。
成瀬さんのクラスは、俺と彰のクラスの担任であり部活の顧問でもある御門先生から事前に聞いてある。
突然の上級生によって俺に視線が集まる。俺にとって最も居心地の悪い廊下となっていた。
罰ゲームのような感覚で廊下をしばらく歩き、目的地にたどり着く。
教室に入るタイミングを窺っていると、クラスの女子が一人タイミングよく教室を出てきた。
「あっ、あの……成瀬さんってこのクラスですよね? 今日はお休みなんですか?」
先輩が後輩に敬語というのも端から見たらかなりおかしな光景だろう。
そんなことも気にならないほど、俺は緊張していた。
「へ? えっと……成瀬さんですか? 今日はお休みですけど……」
「あっ、そう……ですか」
「はい…………」
気まずい。思わず走って逃げ出してしまいたくなるほどの気まずさがそこには漂っていた。
「あの……もういいですか?」
「あっ、はい……。ありがとうございます」
俺がそう言うと、その少女はまるで怖いものから逃げるかのようにパタパタと走って去っていった。
「はぁ……部室行こ……」
部室へ行っても彰しかいないので特に話し合うことも無いと思うが報告だけはしておくべきだろう。
「おっせーぞー。暇すぎて頭おかしくなりそうだったんだからなー」
部室へ入った途端いつものようなイラつかせる言葉が飛んできた。
「前から頭おかしいのにこれ以上おかしくなるわけないだろ」
「ひっで!! で、どうだったんだ? やっぱり休みだったのか?」
「そうみたい。あと、成瀬さんのクラス担任にプリントを成瀬さんの家まで届けに行くよう頼まれたから行ってくるわ」
成瀬さんが休みということを聞いた後の帰り際、成瀬さんのクラス担任に呼び止められたのだ。
何故俺なのかは全く分からないがその教師曰く、同じ部活だということを知っていたのと、たまたま目に入ったからだという。こんな適当でいいのかと思ったが成瀬さんのことも心配だったため引き受けたのだった。
「ふーん……。じゃ、俺も帰るかー。また成瀬さんが来たら集まろうぜ」
「了解。それじゃ」
「おう」
簡単にそうやり取りを交わし、俺は部室をあとにした。
プリントと一緒に受け取っていた住所と地図を頼りに成瀬さんの家へとたどり着く。
周りの家に比べると明らかに大きいその家には表札が無かった。
「ここ……だよな?」
この家だけ表札が無いが、周りの家に成瀬という表札は見当たらない。ここで大丈夫だろう。
おそるおそるインターホンを押し返事を待つ。
「…………いない?」
家族で出かけているのか? それで休みなのかも。そう思い引き返そうと体の向きを変える。
「おわっ!?」
振り向いた先には俺よりも背の高い細身の男がぶつかりそうなほどの近い距離に立っていた。思わぬ対面に驚きの声が漏れる。
「唯ちゃんのお友だちかな?」
成瀬さんの兄なのだろうか。とても若く見えるその男はふわりと柔らかな笑みで俺にそう聞いてきた。
「あっ、はい。なる……唯さんのお兄さん……ですか? あの、プリントを届けに来たんですけど」
「ははははっ! お兄さん、か。嬉しいね~」
「えっ……」
「ああ、ごめんごめん。私はお兄さん、ではなくて唯の父だよ。いやぁ、私もまだまだいけるものだね。はははっ!」
マジか……。いやいや若すぎるだろ。その見た目で子持ちには全く見えないぞ。
「す、すいません。失礼しました。あ、唯さんにプリントを……」
「ああ、そうだったね。唯は今熱が高くてね。起き上がれないほどなんだ。今も寝ているから私が渡しておくよ。ありがとうね」
そんなにもひどい状態だったのか。
「あの、少し様子だけでも」
心配になった俺は少しだけでも様子を見たいと思い尋ねるも、言いきる前に言葉を遮られる。
「ごめんね、寝ているから。これからも唯をよろしく頼むよ。それじゃあ」
それまで浮かべていた柔らかな笑みから一変。別人かのように恐ろしい表情でそう答えると家へと入っていった。その口調自体は柔らかいものだったが放たれるその空気はゾッとするようなものを纏っていた。
何が起きたのか、なぜ怒らせてしまったのか分からず、俺はその場でしばらく立ち尽くしていた。
ふと視線を感じ二階へ目を向けると部屋の窓から誰かがこちらを覗いていた。こちらの視線に気づいたのか素早くカーテンが閉じられる。
「成瀬さん……?」
一瞬ではあったがこちらを覗いていたその人物が成瀬さん、父ではなく唯ちゃんであったのが分かった。
恥ずかしかったのだろうか? 成瀬さんの性格からしてそこは納得出来た。ただ成瀬さんの父親は、成瀬さんが高熱で起き上がれず寝ていると言っていた。それにも関わらず、窓から見えた成瀬さんは一瞬ではあったが起き上がれないほどの熱があるようには見えなかった。
不思議に思ったが再度成瀬さんの父親にそのことを尋ねるのも気がひけた、というよりもさっきのあの恐ろしい表情を見たら誰でもまたインターホンを押そうとは思わないだろう。
「帰るか……」
これ以上はどうすることも出来ないと思った俺は来た道を引き返し帰路へとついた。
「橘先輩……。なんで……」
カーテンが閉じられ薄暗い部屋の中、彼女は一人呟く。
その少女の頬にはひっかき傷のような傷跡が痛々しく刻まれていた。
「先輩に見られたかな……傷跡……」
表では別人のように人当たりよく振る舞うあの父から虐待を受けているなんて誰も想像しないだろう。
誰にも打ち明けられず、恐怖と孤独感から震えの止まらない少女。
学校での優秀な言動からは想像もできないほどのか弱い姿。
ガッシャーーン!!
『なんなんだあのクソガキは!!!!』
下の階から大きな物音とともに怒号が鳴り響く。
その物音と怒号でビリビリと振動が伝わってくる。
恐怖からか少女は膝を抱え小柄な体をより一層小さくする。
「もう、こんなの嫌だよ……辛いよ……。助けて……先輩……」
震えるその声は暗く狭い部屋に吸い込まれて消えていく。誰にも届かずに。