休日デート!?
週末の日曜。俺、橘孝輔は何をすることもなくそこに立っていた。
誰かと遊びに行くということがあまりなかったため、かなり早く集合場所に着いてしまったのだ。
周りは楽しく休日を過ごす人々が行き交っている。
この商店街は県内でもとても大きく、家族連れやカップル、友達といったように男女年代を問わず大勢の人で賑わっている。
きっと次に来るのは成瀬さんだろう。彰は……時間通りかもしかしたら遅刻をするだろう。
そんなことを考えていると、ふと視界に成瀬さんの姿が入る。まだ集合時間には10分以上あり、成瀬さんは自分が最初と思っているのだろう。周りを見渡して探しているような気配がない。
成瀬さんは普段、とても落ち着いているので、少し驚いた表情が見たくなった。
俺はゆっくりと背後へと近づいていく。
「わっ!」
成瀬さんの真後ろで、俺はその両肩をポンッと叩くのと同時に声をかけた。
「ひゃっ!」
驚いたような声が成瀬さんの口から漏れる。突然のその大きな声に、周りの通行人が何事かと驚きこちらを見ていた。
「ううぅ……」
想像以上にびっくりしたのか、涙目になっていた。
成瀬さんはぷるぷると肩を震わせながらゆっくりと振り向いた。
「ご、ごめんごめん! まさかそんなにびっくりするとは思わなくて!」
少しやりすぎてしまったと反省。
「橘先輩……いじわるです……」
「ごめんね。ちょっと驚かそうと思っただけで。それより成瀬さん早いね、まだ集合時間まで結構あるけど」
「えっと……今日が楽しみで、早く来ちゃいました。……えへへっ」
成瀬さんは少し恥ずかしそうに、ほんのりと赤く頬を染める。
「橘先輩こそすごく早いですよね」
「だ、誰かと遊びに行くのって久々で……。ちょっと早く着きすぎちゃって、あはは……」
成瀬さんよりも早かったこともあり、かなり恥ずかしい。
「彰先輩はまだ来ていないんですか?」
「多分遅刻してくると思うよ。成瀬さんもいるからそんなに遅くならないと思うけど」
もし待ち合わせが俺だけなら30分、いや1時間は遅刻してくるかもしれないが……。
「そういえば、学外で会うのは初めてだね。私服姿もすごく似合っててかわいいね」
制服姿もとても可愛らしいが、センスがあるのだろう、成瀬さんの私服はその可愛らしい姿をより一層際立たせていた。裾の短いショートワンピースからは、華奢で細い足が見える。この華奢な足であれだけ早く走れるとは全く想像できないだろう。
「か、可愛いって……本当、ですか?」
信じられないといったように驚いた表情の成瀬さん。
「うん。すごく似合ってるよ」
「……橘先輩が似合ってるって。可愛いって……つまり好きってこと? 可愛い、好き、両想い、愛しあってる……結婚……」
ボッと頬を赤く染めたかと思うと、途端に俯き、ぶつぶつと何か呟く成瀬さん。しかしその小さな呟きは周りの喧騒によって、全く聞き取ることが出来なかった。
「な、成瀬さん?」
様子が少しおかしいことに気づき慌てて声をかける。
「あっ、な、なんでもないです」
我にかえったように、ハッと顔をあげてそう答える成瀬さん。
少し気まずい空気になったところ、良いタイミングで彰がやってきた。
「よーっす! 待った?」
「すっごく待った」
「そこは、『ううん、今来たところ』って言うところだろ~?」
「すっっっごく待った」
「あははははっ! 悪かったよ!」
集合時間から10分遅れてやってきた彰は着いて早々うるさかった。
「で、今からの予定って何か決まってるのか?」
「いや、正直全く決めてない」
こうして誰かと遊びに行くことがほとんどない俺に、計画なんてたてられるはずもない。
「二人は見たいものとかないの?」
「俺の妹の誕生日がもうすぐなんだ。妹へのプレゼントを買いたいんだけど。良いか?」
「俺は問題ないけど。成瀬さんは大丈夫?」
「はい。でも、何を買うんですか?」
「それがまだ決めてなくてな。んーー、そういえば孝、お前のネックレス良いな。どこで買ったんだ?」
「ああ、これか。昔から持っててどこで買ったのかは覚えてないんだ……。いや、買ったんじゃなくて貰った……のかな。あれ……誰に……」
休日出掛けるときは決まって身に付けていたのに、いつから持っているのか記憶が曖昧だった。
何故かこれがとても大切なものであることだけは分かる。
「そっかー。よし、決めた! じゃあプレゼントはアクセサリーにする!」
「適当だな……。成瀬さん、彰の妹さんのためにも、アクセサリー選びを手伝ってあげて?」
「良いですけど……どうしてですか?」
「こいつ変なもの選びそうだから……」
「ひでえな! 俺のセンス見てろよ!?」
彰のことだ、可愛らしいものではなく面白そうなものを選ぶに決まってる。彰のものであれば何も気にしないが、妹さんのものとなれば話は別だ。ここで防がなければ妹さんがひどい目にあってしまう。
「よし、じゃあぶらぶら歩きながら良さげな店に入ってみるか!」
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適当に商店街をぶらつきながら、いくつかのお店に入っては出てを繰り返していた。
そうこうしているうちに数時間が経ち、これで8店目だ。
3人で店内を回っていると、成瀬さんがふと何か見つけたのか、急に立ち止まる。
「これ、なんてどうですか?」
成瀬さんは彰に可愛らしいブレスレットを見せてそう言った。
「おおお! 良いじゃん! これにするよ!!」
確かに成瀬さんのセンスは良いようだ。とても可愛らしいそのブレスレットを手にした彰は、すぐにレジへと向かっていった。
「成瀬さんってやっぱりセンスあるんだね。よくショッピングとかってするの?」
「い、いえ! センスなんて……。ショッピングは、そうですね、暇があればよく友達とお買い物に出掛けたりします」
「今日は見たいものとか無いの? 遠慮しなくてもいいからね?」
「それじゃあ……。スポーツ専門店に行っても良いですか?」
「もちろん! じゃあ彰が戻ってきたら行ってみようか」
「はい!」
レジを終えた彰が戻り、今の話を伝え、すぐにスポーツ専門店へと向かった。
「あれ?」
専門店へと向かう途中、とある店の前で見覚えのある顔を見かける。
「んんん~~! 可愛い~~!」
見覚えのあるその人は、店前のショーケースに陳列されたぬいぐるみをうっとりと眺めながらそう言った。
「会長?」
面倒なことになりそうなので、声をかけるつもりはなかったが、その人物が生徒会長であることに気づいた俺はうっかり口からその言葉が漏れてしまっていた。
「ひゃい!?」
突然声をかけられ驚いたのか、ビクッと小さく飛び上がる。
身長が低いせいで俺を見上げる形となり、涙目で俺を睨み上げる。
「あ、あなた、橘君ね!? いきなり話しかけないで下さい! びっくりするじゃないですか!」
「す、すいません。そんなに驚くとは思わなくて。会長ってぬいぐるみ好きなんですか?」
「なっっ! そ、そんなわけないでしょう!? ぬいぐるみなんて、こ、子供っぽいもの私が好きなわけないでしょ!?」
「別にぬいぐるみが好きだからって、子供っぽいとか思わないですよ……」
「と、とにかく! 私は、えっと……その……妹、そう! 妹へのプレゼントを探していただけです!」
「そ、そうですか。それじゃあ俺たちは用事があるのでここで……」
何をそんなに怒っているのかは分からなかったが、これ以上何か言うと面倒なことになりそうなので適当な言葉をつけて、この場を去ることにした。
会長に別れを告げてから少し歩いたところで、後方から再び声が飛んでくる。
「私が欲しかったわけじゃないですから!! そこのところ勘違いしないで下さいねーー!!」
また面倒なことに巻き込まれたとため息をつく俺の隣で、ニヤニヤと笑う彰。
「お前よくこんなに面白いことに巻き込まれるよな! ほんっと、一緒にいて飽きないな! あはははっ!」
「好きで巻き込まれてるんじゃねぇよ! それより生徒会長って1年生でも出来るものなのか? 1年生だとまだ学校についてそんなに知ってるわけでもないだろ。もっと上の学年の方が適任なんじゃ」
「へ? 橘先輩、生徒会長さんは3年生ですよ?」
「うそっ!?」
「お前知らなかったのかよ。九条さんは、理事長のお子さんってのもあって生徒会長になってるんだろうけど、あれでも3年生だぞ。まあ年齢は俺たちより年下だけど」
そんなことも知らなかったのかと呆れたように言う彰。
「は? 年下なのに3年生ってどういうことだよ」
「生徒会長、九条先輩は飛び級して3年生なんです。なんでも小学生のうちに高校の勉強は終えていたそうですよ? 私と同じ年なのにすごいですよね」
生徒会長は理事長のお子さんで、成瀬さんと同じ年だけど飛び級で3年生。それに加えてド変態。本当何者だよ……。
「あ、ここです」
生徒会長について色々と話していると目的地に着いたようだ、成瀬さんが立ち止まりそう言った。
商店街からは少し外れたところにその目的地であるスポーツ専門店はあった。
店内に入り、成瀬さんを先頭に目的の場所へと向かった。
「あっ! ここですね……わあ、こんなにたくさん……」
その目的の場所にはシューズやウェア等が豊富に陳列されていた。
「新しいウェアが欲しいんですけど、これだけあると悩んじゃいますね……う~ん……」
走ることがよほど好きなのだろう。以前部活で走っているときに見た真剣な眼差しがそこにはあった。
「あっ、そうだ! 橘先輩、選んでください! やっぱり自分じゃなかなか決められないので、えへへ……」
「俺、センスないから……ごめん」
俺よりも成瀬さんの方がセンスがあるのは今日の買い物で確信した。しかし、そう言うと成瀬さんはとても残念そうに、しゅんと俯いてしまう。
「わ、分かったよ! じゃあ、えっと……」
ウェアが陳列されたコーナーを一通り見回しながら、成瀬さんが着た姿を想像していく。
正直どれを着ても似合いそうな気がする。しばらく見回すと、ふと一着のウェアが目に飛び込んでくる。
それは、とても鮮やかなピンク色をしており、少し小柄で華奢な成瀬さんにとても似合いそうなデザインをしていた。
「これとか……どう、かな?」
俺はその一着を手にし、成瀬さんに見せながらそう言った。
「わあっ! すごく可愛いですね! では、ちょっと試着してみますね!」
何が嬉しかったのか、声を弾ませながら小走りで試着室へと向かっていった。
数分後、試着室のカーテンから顔だけ覗かせる成瀬さん。
「ど、どうかした?」
様子のおかしい成瀬さんに少し戸惑いながらたずねる。
「いえ、ちょっと恥ずかしくて……」
本当に恥ずかしいのか、目線をそらし、頬を赤く染めながら成瀬さんが言う。
「そんなの大丈夫だって! 早く見せて見せて!」
興味津々な彰が急かしだす。
「うぅ……笑わないで下さいね……」
そう言うと恥じらいながらもゆっくりとカーテンを開け、姿を見せた。
我ながら今回の選択は正解だったようだ。その鮮やかなピンク色は可愛らしい成瀬さんの容姿にとても似合っており、より一層成瀬さんの可愛らしさを引き出していた。
「すごく似合ってるよ! 本当! すっごく似合ってる!」
「おおおお! 本当だな! 孝にしてはセンスあるじゃん! ぴったりだよ!」
本当に一言余計な言葉を付け足す彰。
「そ、そう…ですか? じゃあ、これにしますっ! さっそく買ってきますね!」
試着室へ戻り、着替え直した成瀬さんは急ぎ足でレジへと向かっていった。
嬉しそうにレジへと向かう成瀬さんを見送りながらも、ウェア姿からちらりと見えた腕の痣のことを考えていた。単に部活で怪我したものだろうと思うが、何故かその痣がずっと頭の隅に引っ掛かり続けた。
「お待たせしました。選んでくださってありがとうございます! 大切にしますね、えへへ♪」
そんな痣の気がかりも、成瀬さんの心底嬉しそうな笑顔を見ると自然と忘れていった。
「で、これからどうするんだ?」
「んー、一通り見たし……あっ! 今から俺の家でお菓子作りでもする? 最近、姉さんがお菓子作りにはまってるみたいでさ。姉さんも喜ぶと思うし」
せっかく高校で友達が出来たんだ。沙織さんが俺に友人はいるのかと心配していたし、彰も沙織さんに会ってみたいって言ってたからちょうど良い機会だろう。
俺の提案に二人は前のめりで同意した。彰は納得の反応だが、成瀬さんはなぜだろうか。よほどお菓子作りが好きなのだろうか。
スポーツ専門店をあとにした俺たちは真っ直ぐ目的地へと向かった。
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「ただいまー」
商店街をあとにした俺たちは、お菓子作りのため、2人を連れて自宅へと戻った。
「おじゃましまーっす!」
「お、おじゃまします」
彰は靴を脱ぎ散らかし、成瀬さんはそれを整える。
後輩になにやらせてるんだよ……。
「姉さーん。いるー?」
いつもならパタパタと玄関まで出迎えに来るのだが今日に限ってそれがなかったため不思議に思う。
沙織さんの靴があるからいるはずなんだけど……。
「ちょ、ちょっと二人はここまで待っててくれる?」
何か嫌な予感を察知した俺は玄関に二人を待たせ、沙織さんの様子を確認しに向かった。
「ね、姉さん?」
恐る恐るリビングを覗く。
「うん。大丈夫。うん……元気だよ」
沙織さんは誰かと電話していたようだ。なるほど、それで返事がなかったのか。安心した俺はそのままリビングに入り沙織さんに再度声をかけた。
「姉さん。ただいま」
「あっ! 孝ちゃん、おかえりー! ん? あ、うん。孝ちゃんが帰ってきたの。うん、それじゃ」
俺に気づいた沙織さんは俺に声をかけた後、再び電話越しの相手に返事を返し受話器を置いた。
「誰だったの?」
「ん? パパから。私たちが元気でやってるのか心配だったみたいね。ふふっ、相変わらず心配性だよね」
「そ、そうだね」
心配性だったら俺を放置して海外へ行かないと思うけど……。まあいっか…。
「それで、どうかしたの?」
「あっ、そうだ。今学校の友達が来てて、一緒にお菓子作りでもしようかなって思ってるんだけど良いかな?」
「孝ちゃんに友達!? もちろん良いよ! あっ! ちょっと待って、散らかってないかな!? わあっ! 洗濯物が! えっと、あとあと……。あっ! お姉ちゃんの服、変じゃないかな!? 着替えてきたほうがいいかな!? それとそれと、ええっと~~」
急に友達を呼ぶとこうもパニックになるのか……。今後はあらかじめ電話一つ入れてからにしよう……。
「だ、大丈夫だって! 別に散らかってないし、服も変じゃないよ!」
「そ、そうかな……。服似合ってて可愛いって? そ、そんな……言い過ぎよぉ、孝ちゃんってば……」
そこまで言ってないんですけど……。
「と、とにかく! 玄関に待たせてるから連れてくるよ!」
それを聞いてバタバタと慌ただしく部屋を片付け始める沙織さん。しかしこれ以上二人を待たせるわけにもいかないので、無視して二人を呼びに向かう。
「おせぇぞ~! ん? なんか奥からバタバタ聞こえてくるけど大丈夫か?」
彰からの腹立たしい苦情を受け、少しイラッとしたが我慢してそれに答える。
「ああ、大丈夫。二人とも入って」
俺は二人を後ろに連れて、再びリビングへと入る。
「あっ、いらっしゃい! 孝ちゃんのお友だちよね。話はさっき聞いたわ。好きにキッチン使っていいからねっ!」
あの短時間で着替えたのか、沙織さんの服装はさっきまでの普段着から、外出用の、それも俺でさえ見たことのないドレスで着飾られていた。
「お、おじゃ、おじゃましますっ!! 早乙女彰と申します! 17歳、趣味は読書です!! よ、よろろ、よろしくお願いします!!」
普段からヘラヘラとしている態度とは一変して、緊張している様子がとても新鮮で面白い。
「成瀬唯です。お休みのところお邪魔して申し訳ございません。本日はよろしくお願い致します」
一方で、成瀬さんは終始落ち着いた様子で、とても丁寧な立ち居振舞いだ。
ご両親の教育や産まれ育った環境の良さが窺える。
「まあまあ、ご丁寧に。どうぞゆっくりしていって下さいね♪」
俺の友達が来たことが嬉しかったのか、ニコニコと嬉しそうに二人を歓迎する沙織さん。
「孝ちゃんのお友だちか~」
何が珍しいのか、沙織さんは二人を前後左右、様々な角度からジロジロと観察し始める。
そのおかしな光景に少し戸惑い始める成瀬さんと彰。
「ね、姉さん! 今から何か簡単なお菓子でも作ろうかなって思ってるんだけどちょっと教えてもらってもいいかな?」
姉さんが変な人だと思われる前に慌ててお菓子作りについて切り出した。
「もちろんっ! お姉ちゃんに任せなさい!」
頼られたのが嬉しかったのか、どんっと胸を叩いてにっこにこ顔の沙織さんがそう答える。
どんっと胸を叩いたことで、その豊満な胸がぶるんと弾んだ。
「おおうふ……」
彰からはうっとりと漏れた吐息が。
「…………くっ」
成瀬さんからは……ジトっと何か恨むような、憎むような視線で悔しそうな声が漏れる。
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しばらく順調にお菓子作りを進め、ようやく簡単なクッキーが完成した。
「出来たぁ~! うおおぉ! すっげえ美味そうじゃん!」
彰は子供のようにはしゃぎ、まっさきに手掴みでクッキーを手に取り食べた。
「うっっま!!」
そんなにも美味しかったのか、馬鹿でかいそのリアクションは俺たちの食欲を掻き立てた。
「んっ、確かにとても美味しいです!」
「おおっ! 本当だ、すげえ美味い!」
俺と成瀬さんも美味しそうに食べる彰に釣られて出来立てのクッキーを一つつまんだ。
大袈裟なリアクション、というわけでもなく、出来上がったそれは、店に並んでいても全くおかしくない、むしろそれ以上の見事な出来映えだった。
「さあさあ、こんなところで立ち食いしないでお皿に盛り付けて皆で食べましょう♪」
沙織さんはそう言うと、花柄で縁取られた大きな皿に盛り付け始めた。
成瀬さんと彰をテーブルの席につかせ、沙織さんが盛り付けている横でお茶の準備を始めた。
「孝ちゃんにもお友だち出来て良かったわ。転校して馴染めていないんじゃないかって心配で心配で……。本当……良かったわ」
本当に心からほっと安心したのか、いつものにこやかな表情の中に穏やかな、安心しきったような色が混ざっていた。
「じゃ、じゃあ、お茶運んで待ってるからね!」
その普段とは少し違う沙織さんにドキッとさせられ、慌ててその場から逃げるように離れた。
お茶を二人のもとへ持っていくと、席には彰しか座っていなかった。
成瀬さんは、電話をしているようだ。テーブルから少し離れた位置で話をしている。
「は、はい。分かりました……。はい、すぐに……はい」
話し終えてテーブルへと戻ってきた成瀬さんの表情は少し暗いものだった。
それも一瞬のもので、慌てて取り繕うように笑顔で、しかしその笑顔には、若干のぎこちなさが見え隠れしていた。
「どうかしたの?」
「いえ、あの……せっかくご自宅までご招待頂いたのですが、急用が出来てしまって……すいません。私はここで……」
その成瀬さんの声色は残念そうで、また何かに怯えているような若干の震えがあった。
「ううん、気にしないで。じゃ、また学校で」
俺はそんな申し訳なさそうな成瀬さんを気遣いそう返した。
「おう! また明日な!」
彰は気づいているのかいないのか、いつも通りの明るい態度で返す。
成瀬さんは俺と彰に深々とお辞儀をし、そのままキッチンにいる沙織さんのもとへ向かった後、帰っていった。
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「ああ、痛いなあ……。逃げ出したい……。橘先輩……」
暗く狭いその場所には一人の少女、成瀬唯がいた。
この狭い空間は物置なのか、彼女のまわりには、芝刈機や木材などが乱雑に置かれていた。
「これじゃ、明日学校行けないよ……今回は何日で出られるのかな……あはは」
顔は赤く腫れ、腕や足には痣や切り傷が見られる。乾いた笑いは自分の気持ちを保つためなのか、それとも何か諦めのようなものなのか、どちらにせよその笑いは良いものではないのは誰からでも分かるだろう。
「どうしたら良いの……どうすれば、良いの。助けて……先輩……うっ、うぐっ…」
ずっと我慢していたのか、ポロポロと涙が溢れる。
「うっ、ううっ、ひっ、く……うあああぁっ!」
膝を抱え、顔を埋め、糸が切れたように泣き叫ぶ。
いつもならまだ明るい時間、しかし外は暗く、真夜中のようだ。
真っ黒な厚い雲がその原因だろう。その厚い雲は、今の彼女の心を表しているようだった。ぽつりぽつりと降りだす雨は涙か。
これからの彼女のように、その黒く厚い雲は長く、長く続いていた。