少女の色 4
「ああ、お帰りなさいませ、中佐殿」
書類の山の中で頭を低くしていたジャック=コークス准尉は、フィリップが執務室に帰ってくるのを認めるなり、そう言って図体を起こし、にっこりと笑った。
「こちらは大丈夫でしたが、中佐殿はバレませんでしたか?」
「大丈夫だ。助かった」
申し訳程度の変装用のために彼から借りた軍帽と下級将校用のマントを返すと、コークスはその童顔に満面の笑みを浮かべた。
「いえ、中佐殿のお役に立てるのならこれくらいは」
彼は元々飛行戦艦の整備を担当していたが、とある事件でフィリップやレオンと知り合い、解決に重要な役割を果たした功績で昇進し、その後フィリップの部下として引き抜かれていた。小柄ながらがっしりした体格は現場慣れした雰囲気をまとっているが、丸い童顔が災いして、いつまで経っても新兵のようだ。浅黒い肌にちぢれた黒髪の彼は、にこにこしながら立ち上がると、小脇にマントを抱えた。
「レオン殿はお元気でしたか?」
「ああ。大丈夫そうだった」
「それは良かったであります。他に、御用は?」
フィリップはちょっと考える仕草をした。仕草だけだったのは、答えは決まっていたからだ。
「無い。ご苦労だった。今日は休んでくれ」
「了解しました。では、また明日」
コークスは敬礼すると、執務室を出て行った。
もう夜も遅い。レイムズは大きなあくびをすると、失礼しますぅ、と言って仮眠室の奥へよろよろ歩いて行った。彼女は自分の部屋より、仮眠室の薄い布団がお気に入りらしい。
フィリップは机を回り込んで、自分の椅子に座った。先ほどまでコークスが座っていたので、ほんのり暖かかい。革張りの重厚な椅子はクッションが柔らかく、彼は深く沈むように座って、何の気無しに書類の山を眺めた。
それから、襲撃者の顔を思い出そうとした。ソフト帽を目深にかぶり、コートを着ていたので、思い出せるはずもない。近隣住民の目撃証言も似たり寄ったりで、上背があったので男だろう、という事くらいしか分からなかった。残された銃弾は大型拳銃の物だったが、それ以上は分かるわけもない。
もっと建設的な事を、とぼんやり思った。そして、ラウラがどうやって居間から台所に、誰の眼にも触れずに行く事が出来たのかを考えた。肝心要の「ラウラに何が起こったのか」については、考えたくなかった。
居間に入る方法は台所の扉と廊下の扉のどちらかだ。しかし台所の扉の前はレオンが篭城しかけた際に鍵をかけたので使えず、残った廊下の扉の前にはレイムズがいたのでそこからは出られないし、レイムズが来るまでは部屋に例の憲兵がいた。台所にはレオンとセバスティアン、それに自分がいて、隠れられるようなところもないのだから、ラウラがいたはずは無いし、当然彼女が自分たちに気づかれずにこっそり入れるわけもない。
唯一状況を不確定にするのは、居間の扉が閉まっていた間、誰もラウラを視認出来る状態ではなかったという点だ。つまり、レイムズが来て居間の扉の前に立ってから、フィリップ達が彼女の消失を発見するまでの間に何かが起きたのだ。その間に彼女に何が起きていたか、知る者はそれこそラウラのみである。
が、それだけだ。
「どこが建設的なんだ」
そう呟いて、フィリップは眼を閉じた。
また、頭の中に「魔女」という単語が浮かんだ。彼は眉をしかめたつもりだったが、実際のところはどうだったのか、目を閉じている彼には分からなかった。
もし、本当に彼女が「魔女」だったとして、それはこの事件に影響を及ぼすのか。
その通りだ。ならば「魔女」たる彼女が魔法を使って、復活して消失して空間移動をした、と言ってもおかしいところは無い。フィリップは、大昔に聞いた気がする魔女の話を思い起こしながら、この荒唐無稽な空想を形にしようとしていた事に気づき、今度はしっかりと頭を振って、その考えを払い飛ばした。
そして、決めた。
次の日の朝一番、フィリップは課員を集めて朝礼を行い、開口一番「数日休暇を取る」と宣言して、レイムズや他の部下達を仰天させた。
「休暇を取って、どうなさるんですか?」
コークスが尋ねると、フィリップはきっぱり言った。
「東部に行く。調べたい事がある」
「ラウラちゃんの事ですかぁ?」
レイムズが、心底呆れた表情で聞く。ラウラの事について聞かされていたコークスも、非難めいた視線を送ってくる。
しかし、フィリップの決意は固かった。元々頑固な性格なのだ。
「……そうだ」
「休暇取ってまでですかぁ?」
「休暇を取らないと、東部に行く理由が無いだろう。それに、これは私事だ」
フィリップはなるだけ毅然と言ったつもりだったが、部下二人の渋い表情は変わらない。
「私事で仕事に穴開けないで下さいよぅ」
「報告書も評価書も調査依頼も溜まっております。処理を急ぐ物もいくつか残っております」
「それにぃ、護衛はどうなさるんですかぁ?」
「ああ、確かに今休暇を取られても、護衛は付くと思いますよ? 犯人は捕まっていないのですから」
レイムズとコークスに交互に言われて、フィリップは口ごもった。確かにそうだ。いくら私事とはいえ、単独での行動が許される状態ではないのだ。
黙り込んでしまったフィリップを見て、レイムズは小さくため息をついた。
「……分かりましたよぅ。半日待ってて下さいねぇ」
そう言って部屋を出て行った彼女は長い事戻らず、昼過ぎにようやく帰ってきて、書類の束をフィリップの胸に押し付けた。
「明日から二日間の日程でぇ、東部方面本営へ緊急巡察に行くよう命令されましたよぅ。この書類にサインお願いしますねぇ」
驚いて何も言えないフィリップに向かって、彼女は疲れた笑みを浮かべる。
「中佐のお守りも大変ですよぅ。あぁ、あたしとコークスも随員として行くんでぇ」
「何?」
「何ってぇ、護衛ですよぅ。まだ狙われてるかも知れないじゃないですかぁ」
彼女が情け無さそうに言うと、そうです、とコークスが力強く頷き、胸を張った。
「中佐殿は自分達がお護りします!」
「わかったらぁ、出来るだけ仕事してって下さいねぇ?」
レイムズの言葉に、部下一同が大きく首を縦に振るのを見て、フィリップは何故か嬉しくなった。
その夜、護衛のコークスと共に軍司令部を出た彼は、公衆電話からホテルのレオンに電話をかけた。東部に行く旨を伝えると、彼は珍しく声を潜めた。
「いいのか? お前の仕事じゃないだろ?」
「はい」
「軍の方は大丈夫なのか? 大体、お前が狙われてる可能性だって十分あるんだぜ?」
「分かっています。大丈夫です」
レオンは、いつもより硬質なフィリップの声を聞き、少なくとも説得は諦めたようだった。
「……いやな、ありがたいとは思ってるんだぜ?」
「ありがとうございます」
「そうじゃなくて……まあ、いいや。戻ってきたら報告を宜しくな。気をつけろよ」
彼は優しくそう言って、お休み、と電話口に告げると電話を切った。
受話器を戻した後、フィリップは自問自答しながら街頭電話室を出た。自分は何故、この件を追うのか。
予感がするのだ、と頭の片隅が告げた。何か予感がするのだ、と。
どんな予感なのか分かるはずも無く、フィリップは頭を振って、考える事を放棄した。不安そうに体調を尋ねてくるコークスを手で制し、ガス灯の照らす闇の中を歩いて、軍司令部に付属した宿舎に戻った。
部屋の前まで送ってくれたコークスと別れて、フィリップは部屋の中に入ると真っ先に洗面台に行き、冷たい水で顔を洗ったが、気分は晴れない。
のろのろと顔を上げると、当然の如く鏡がそこにあった。そこに映った自分の顔もまた当然の如く無表情で、少し隈が濃い以外はあの日と全く変わっていなかった。何も思っていないような瞳でこちらを見返してくる虚像がまたもや嫌になって、顔も拭かずに部屋に戻ると大股でベッドまで歩き、軍靴を脱ぎ捨てて、枕に頭を押し付けた。枕が顔の水滴を吸っていくのが感じられて、冷たく湿ってしまったそれが不快であるはずなのに、今は気にならなかった。
フィリップは枕の中で考える。予感とは何なのか。自分は、あの赤毛の少女に対して何を考えているのか。
あの厭世的な、虚ろな瞳を思い出して、彼はぎゅっと目を閉じ、それから気を紛らわそうと、執務室の書類群の整理について考えようとした。しかし、書類が形成する山々が浮かんでは消えるだけで、書類自体の事は全く思いつかず、二回ほど寝返りを打ってみたが効果があるはずも無く、彼は軍服のまま、鬱々と寝返りを打ち続けた。
枯竹四手です。宜しくお願いします。
連載八話目の投稿となります。
これでこの章が終了となります。
次回から新章です。