始まりの香り 5
隣にいるセバスティアンの唇がわなわなと震えているのに気づいて、フィリップは誰より早く正気に戻った。
「レイムズ!」
上司のほとんど叫びに近い呼び声も意に介さないようで、居間の入り口から突き出された彼女の顔はのんびりとしていた。
「はぁい?」
「ここにいた少女……少女の、遺体はどうした?」
「……へぇ?」
顔をしかめて居間に入り、飾り棚の裏を覗き込んだレイムズは首を傾げ、数秒目を伏せていたが、顔を上げた時には不可解そうな表情を浮かべていた。
「あたしは今初めてここに入りました。ずっと居間の入り口にいましたが、誰も居間に入っていません」
いつもの間延びした声ではない。フィリップは不安を覚えた。
「……どういうこった」
呆然としていたレオンは、やっとそれだけ呟いた。セバスティアンは未だに血だまりを凝視している。レイムズは状況が分からず、血痕とフィリップを交互に見ている。彼自身は、必死に冷静さを取り戻そうとしてホルスターの留め金を探っていた。
その時、居間から台所に通じる扉の奥から、ガタンと音がして、その場にいた全員が、反射的にそちらを向いた。
少しの間誰も何も言わず、誰も動かなかった。ようやくフィリップの身体だけが機械的に動いて、右手に撃鉄を上げたリボルバーを握ったまま、左手で扉を開けた。ぎぃ、と大きく軋む音がしたが、そんな事は気にならなかった。
そして、彼は危うく引き金を引くところだった。
台所の奥にある、先ほどまでレオンが座っていた椅子に、赤毛のメイドが行儀よく座っていた。メイド服はところどころ血で染まっていて、色白の顔はさらに色を失い、額の左側から頬にかけてこびりついた血の色をさらに引き立たせていた。濡れた前髪が額に貼り付いて、血と一緒くたに固まっていた。血の匂いは台所に充満していて、ともすれば咽せてしまいそうなほどだった。
眼を閉じていた彼女はゆっくりと顔を上げ、その赤い瞳を彼らに向けた。セバスティアンがひっ、と息を飲む音が聞こえた。
一番最初に動いたのはレオンだった。扉を開けたまま動けなくなったフィリップを押しのけ、台所の中に突進すると、ラウラの両肩をつかんだ。後ろから見た彼の肩は、小刻みに震えていた。
「……無事……なんだな?」
レオンの声はひどく小さく、ぼやけた声だったが、音を失った室内ではよく響いた。
彼の身体の陰でメイドの顔は見えなかったが、小さく、厭世的な声がはっきり聞こえた。
「はい」
初めて聞く彼女の声は、たったそれだけだった。たったそれだけだったが、フィリップはそれだけの声に何かの感情がこもっている事を感じ、その感情が分からなくて、呆然と立っていた。
彼が我に返ると、ラウラを抱きしめるレオンとその後ろでおいおい泣いているセバスティアン、そして非常に珍しい事に、引き締まった表情を浮かべたレイムズが、懐疑の視線を自分に向けている事に気づいた。
混乱しながらも、彼は眼の端で、先ほどまでラウラが倒れていた血だまりを捉えていた。飾り棚の陰に紙くずのような物が転がっているのが見え、彼は一旦レオン達から離れて、ポケットからハンカチを取り出し、それをつまみ上げた。それは、丸めた血まみれの油紙だった。職業的な反射行動で、彼はそれをハンカチで丁寧に包んでポケットに入れた。それから、冷静を取り戻そうとして小さく深呼吸をした。
血の匂いがした。
憲兵達に対して「死人は勘違いであった」事を伝える、というひどく難しい任務を仰せつかったレイムズは、そののんびりした口調で、ぽかんと口を開けている憲兵達に身振り手振りを交えながら、必死に何かを説明していた。
その後ろで、ひとしきり泣いたセバスティアンと堪えきれなかった涙を拭ったレオン、血まみれの顔を拭いてもらったラウラと一緒に、フィリップは未だ混乱していた。
確かに頭部を血まみれにして倒れていたはずだ。この眼ではっきりと見た。が、当人は今、セバスティアンが淹れた茶のカップを手に、先ほどと同じ椅子に座ってぼんやりしている。血を拭う時に確認したが、こめかみには穴はおろか、擦り傷すら無かった。
一体どういう事なのだろう。彼は考えたが、勿論答えは出なかった。
レイムズが判断して呼んでいたらしい、顔なじみのローシュ軍医が現れるまで誰も喋らなかった。坊主頭に片眼鏡をかけた小柄な軍医は、いつもと違う医者鞄を抱えていた。検死のつもりだったらしく、つまり彼の仕事は無くなってしまったわけだが、レオンは強固にラウラの診断を要求した。
「頭とかぶつけてるかも知れないし、精神的にショックな出来事だっただろ? 今は大丈夫でも後から急に、って事もあるし」
「いや全くその通りですな。では、一通りの診察を行いますので」
ひょうきんな軍医はおどけたお辞儀をして、ラウラを別室へ連れて行った。彼女は一言も発さず、おとなしく従った。
「……どういう事なのでしょう」
取り残されたフィリップが小さく言うと、レオンは流し台によりかかって、天井を見上げた。そのまま、うわごとのように喋り始めた。
「分からん。てんで分からん。俺もそうだよフィリップ。俺も見たしセバスティアンも見た。そうだろセバスティアン?」
これもまた珍しい事に、どんな発言にも常にはっきり返事をする執事は、今は頷くだけだった。そして、それを見る事も無く、レオンは喋り続ける。
「でも、こめかみにゃ銃創の欠片もない。かすり傷の一つだってしてねぇ。血だまりばっかで一体全体それがどこから来たかもわからねぇ。しかもどうやって台所に行ったのかも分からん。俺達が入ってきたとこじゃねえか。訳が分からん、わからねぇ」
彼はそこまで言うと、それきり黙って天井とにらめっこをし続けていた。
そうだ、確かにどうやったら台所に行けるのかが分からない、とフィリップも思った。が、すぐにそんな出来事すら二の次の問題だと気づいた。きっと、レオンも気づいている。それ以前に、もっと訳の分からない事が起きたのだ。目の前で。
つまり、彼女は頭を撃たれ血が流れて死んだにも関わらず無傷で生きており、倒れていた場所から消えたかと思うと台所にいた、ということなのだ。普通に考えてみよう、と思って、フィリップは顔をしかめた。
そんな事は無理だ。もし死んだのが誤認だったとしても銃創が無いのは説明出来ないし、血だまりも説明出来ない。死んでいなければ移動は可能だったろうが、誰にも見られずに飾り棚の陰から消え、台所へ出られるはずが無い。大体、彼女は撃たれて倒れていたのだから、移動が出来るはずも無い。堂々巡りを始めた頭脳に、ふと別の考えが浮かぶ。
彼女が一度死んだ後「復活」し、現世から「消失」した上で居間から台所へ「空間移動」をしたとしたら整合だ。全く整合だ。
頭が痛くなってきて、フィリップも執事の淹れた茶を一口飲んだ。が、それはいつもの紅茶ではなかった。東方の煎じ茶らしく、緑色の、渋味の効いた茶だった。
紅茶は赤いからな、とぼんやり思っていたら、気まずそうにレイムズが現れ、ローシュが呼んでいる事を告げた。三人で二階の一室に行くと、ローシュがベッドの横で鞄を漁っているところだった。
「多少貧血気味ですな。栄養のある物を採らせるとよろしいでしょう」
ローシュは、大きなベッドに寝かされたラウラを横目で見た。彼女は目を閉じ、眠っているようだった。
「睡眠薬を処方しました。明日まではぐっすり寝ていますよ」
「ありがとよ。怪我とかは?」
少し気を取り直したレオンは、眠るメイドに流し目をくれながら話を聞いている。
「外傷は無いです。頭痛も無いと言っとるので、とりあえずは大丈夫かと」
「分かった」
ローシュは押し黙ってもじもじしていたが、下唇を噛み、片眼鏡をかけた右目で、長身のレオンを見上げた。
「……一応お聴きしてよろしいですか?」
「何を?」
「その、彼女は非常に栄養状態が悪いのです」
「……ああ」
レオンの顔があからさまに曇り、ローシュは一瞬怯んだようだが、それでも気になるようで、言葉は止めない。
「勿論そんな事は無いと重々承知しているのですが、その」
「ローシュ」
フィリップが静かに横やりを入れると、ローシュは肩をすくめて黙った。レオンはフィリップを片手で制すると、恐縮した面持ちの彼に向かって、ちょっと笑ってみせた。
「後できっちり説明出来るようになるさ。それまで、待っててくれ」
軍医は片眼鏡をかけた方の眉をぐいと上げ、それから丁寧に頭を下げ、出て行った。
「申し訳ありません、好奇心の強い奴を呼んでしまいました」
フィリップが謝ると、レオンはまたちょっと笑った。
「構わないさ。使用人が栄養失調気味なら、主の管理が疑われるのは当然だろ。……正直な所、あんまり食ってないみたいなんだけどな」
「……そうですね」
セバスティアンが肯定し、目を伏せた。レオンがそんな事をするような人間でない事は、勿論ローシュも理解しているだろう。ただ、痩せて青白いラウラがどう見ても不健康なのは事実だ。
レオンは彼が出て行った扉を少し見ていたが、気を取り直すかのように目を閉じ、開けた時にはいつもの微笑みが戻っていた。三人は静かに部屋を出て、また居間へ降りていった。
「……さて、どうすっかな」
レオンが顎を撫でながら呟いた。フィリップは少し考え、思いついた事を口にしてみた。
「もしお望みなら、私の部下を護衛に付けますが」
「ああ、いいよ。今のところ、お前を狙った事になってんだろ? 俺も、家の周りを軍人にうろうろされるのは趣味じゃない。……いや、取りあえずここは一旦引き払うかな。修理せにゃいかん」
レオンはそう答え、顔をしかめて居間を見渡した。盾になったテーブルと飾り棚、壁のあちこちに弾痕が刻まれ、おまけに大量の血痕がある。確かに修理と掃除が必要だろう。
「宿泊先が決まったら連絡を下さい」
「あいよ。……ありがとな」
しおらしいレオンを見続けるのが辛くなって、フィリップは窓の外に眼をやった。もうすでに夕方で、西陽が穴だらけの居間をのんびりと照らしていた。目を逸らしたまま、フィリップは呟くように尋ねる。
「失礼ですが、提案があります」
レオンも、小さく応答した。
「言ってくれ」
「東部での出来事について、シェリルに聞いてみるのはどうでしょう?」
「俺もそう思ってた。聞いてみる」
横目で見ると、レオンは目を落として腕を組み、考え込んでいる風だった。
それっきり二人は黙っていた。何とか憲兵と新聞記者を片付けたらしいレイムズがフィリップを呼びにきて、彼は護衛付の軍用車に乗り込んだ。
玄関から手を振って見送るレオンの顔に浮かんでいる微笑を見て、フィリップはまた少し辛くなった。
「部屋に入った憲兵にそれとなく確認したんですけどぉ、彼が見た時はぁ、飾り棚の裏で倒れてたって言ってましたぁ」
レイムズの声は小さかったが、フィリップの耳には嫌なほど残った。先ほど考えた理屈が脳裏で明滅する。
……復活、消失、出現、か。
「何か言いましたぁ?」
「いや」
思わず口をついて出ていたらしい言葉に顔をしかめ、彼はむっつりとして目を閉じた。
枯竹四手です。宜しくお願いします。
という事で、導入部終了です。次回からまた少し字数が減る予定です。