始まりの香り 3
彼の目の前に現れたのは、真っ赤な髪の毛を二つに分けて結び、エプロンドレスを着た少女だった。彼女は背後にある飾り棚から皿を取り出し、無言でフィリップの前に置くところだった。白磁のような肌には血の気が無く、小さな口元には感情が無く、暗い赤色の瞳には生気が無かった。一瞬視線が重なったが、彼女はすぐにそれを逸らした。顔を背ける時に、伏せ気味の目にかかる長い前髪がさらりと揺れた。
その視線に何かを感じて、フィリップは何となくそわそわした気分になった。自然と右腰のホルスターに手が伸びて、つるつるした金属の留め金を指がなぞる。緊張した時にやってしまう、ちょっとした癖なのだ。しかし今はそれすらも何故か気に障って、彼の手は所在無さげにテーブルの上に戻ってきた。
すでに切り分けられていたパウンドケーキの大皿をセバスティアンから受け取り、危なっかしい手つきで二枚の皿に取り分けると、無表情のメイドは礼だけは丁寧に、深く腰を折ってから踵を返すと、一言も発しないまま台所へ消えた。
無関心を装いながら彼女の挙動をちらちら見ていたレオンは、彼女が出て行くと、安心したように紅茶をすすり、カップを置いて、顔をしかめながらくしゃくしゃの黄色い頭を掻いた。セバスティアンもそわそわと台所に目をやっている。
妙に浮き足立った気分の中、フィリップは冷静になろうとパウンドケーキに手を伸ばした。甘くて柔らかい南国の果実が入っていて、しっとりとしたケーキと良く合っている。
無言の空間が嫌で、彼は口を開いた。
「……彼女は?」
出来るだけ冷静な風に尋ねると、レオンはううん、と唸った。
「ああ、新入りというかなんというか」
彼にしては歯切れの悪い返事である。
「悪いな、まだ日が浅いから」
「いえ」
それ以前の問題で、レオンにはセバスティアンという、家事全般を完璧にこなす至って有能な執事がいるのである。ほとんどこのアパートメントに引きこもって生活している一人暮らしの彼に、セバスティアン以外の使用人が必要だとは思えない。つまり、何か理由があるはずである。
「……別に営利誘拐とか人身売買とかじゃねぇからな?」
彼の不審気な視線に気づいて、レオンは嘆息した。流石にそこまでは考えていなかったので、フィリップは首を横に振る。
「姉上の肝いりでな、先週から雇う事になったんだよ」
「なるほど、シェリルですか」
レオンの実の姉であるシェリル=アルモント夫人は、人曰く「ざっくばらん」で「破天荒」かつ「お転婆」だが「美しい」女性である。彼はそんな姉に頭が上がらず、彼女がレオンの女性嫌いの一端になっていると、軍時代からもっぱらの噂だった。フィリップ自身も彼女と初めて出会った際、敬称で呼んで挨拶した途端に「次からシェリルと呼ばないとぶっ飛ばす」と物騒な事を言われた経験があり、その後実際にぶっ飛ばされかけたため、それ以来、少なくとも彼女とレオンの前では、常にそう呼ぶようにしていた。
そんな彼女からの頼みを断れるはずが無い、とフィリップは得心した。レオンは椅子の背もたれに思い切り寄りかかって、ゆっくり話し出す。
「ラウラって名前なんだがな、なんでも姉上が先月東部に旅行に行った時に、姉上曰く、助けてきたらしいんだ」
「助けてきた、ですか」
「ああ」
困ったもんだぜ、とレオンはまた黄色い頭を掻いた。
「詳しい部分は濁すんだから質が悪いよな。一体全体何をやらかしたんだか……。まあ、現状何か問題になってる感じは無いから大丈夫だとは思うんだが。いや、ラウラじゃなくて姉上が、だけど」
彼は台所の方をちらっと見て、情けない表情を浮かべ、テーブルに頬杖をついて嘆息した。
「で、どうも向こうではしっくり来なかったらしくて、俺んとこに置いてくれ、って頼まれたんだ。……まあ、ラウラはなぁ。確かに良い娘なんだが、いまいち心を開いてくれないっていうか、まあ、俺の事が嫌いなんじゃねぇかなぁ」
背後のセバスティアンが若干呆れた表情を浮かべているのにも気づかず、彼はまた大きなため息をつく。この女性全般に対する自信の無さは、確実に姉の影響であろう、とシェリルに会った事のあるフィリップは考えた。フィリップ自身は、周りに女性があまりいない事もあって、いまいち実感が湧かなかった。部下には一人いるが、部下なのでそういう風に考えた事も無い。
「でも、ローシュが言うには、女の子には必ずそういう時期があるんだと。そういうもんなのか?」
「どうでしょう、私も良く知りません」
正直にそう答えると、だよなぁ、とレオンはまた情けなく呟き、気を取り直そうとするかのようにパウンドケーキをかじって紅茶を飲んだ。フィリップも紅茶のカップを取り上げ、少なくなっていた中身を飲み干した。
「セバスティアン、もう一杯もらえるか?」
振り向いてそう言うと、執事は珍しく逡巡していたが、意を決したように顔を上げた。
「お客様に失礼とは存じますが、ラウラに淹れさせてもよろしいでしょうか?」
いまいち意図が理解出来ずに黙ったフィリップの無表情から間違った何かを感じ取ったようで、純朴な彼はわたわたと手を振った。
「彼女は、その、経験が無いだけでして、これから頑張ればきっといいメイドになるはずで、その」
「いや、構わない。彼女に注いでもらおう」
得心いったフィリップがそう言うと、彼はほっとした面持ちになり、深く頭を下げて、台所へ歩いて行った。
「なんか悪いな」
レオンまで頭を下げようとするので、フィリップは視線でそれを止めた。
「何事も経験、と貴方に教わってきました。彼女も主を相手にするよりは、客を相手にした方が緊張感が出るでしょう」
「うん。ほら、いつまでここにいるのかはわからねぇけど、やっぱり多少の礼儀と教養と技術は身につけさせないと。……姉上に悪いしな」
姉上から預かったんだからな、とレオンは誇りと一種の畏怖が混じった声でそう言い、口の端だけ持上げて笑った。
その時、ラウラが紅茶のポットを持って部屋に入ってきたので、二人は会話を止めた。
ラウラはちょっとだけ頭を下げ、フィリップの右側に立って、ティーカップを取った。細い左手でポットを持ち、不器用に紅茶を注ぐ彼女を、セバスティアンが慈愛と不安が入り交じった視線で見つめている。それを鷹揚な視線で見ているつもりらしいが、その実セバスティアンの心境と大して変わらないであろうレオンが、フィリップに見透かされているのが分かったのか、彼を見てにやりと笑った。フィリップはラウラを直視するのが何故かためらわれて、赤い液体が満たされていくカップを見ていた。
その時、玄関の扉が静かに開く音がした。
玄関から廊下を経て一直線上にある居間の扉は、風通しのために開いている。フィリップはそちらに身体の右側を向ける形で座っていた。ラウラの肩越しに何気なくそっちを覗くと、帽子を目深にかぶった人物が立っていて、右手を上げるところだった。暗くて顔が見えないが、客だろうか。
しかし、その人物の右手が鈍く光っているのを見て、フィリップは大声を上げて、ラウラの方に手を伸ばした。
「伏せろ!」
それをかき消すかのように轟音が鳴り響く。目の前のラウラがちょっとよろめいて、フィリップの指先は空を掴んだ。
目の前を、赤いモノが通り過ぎていった。
枯竹四手です。宜しくお願いします。
まともに事件が起きるまでもう少しです(笑