『魔女』の最期 2
「……私の推論を申し上げていいですか」
フィリップがそう言うと、目を閉じたままのレオンは、両眉を上げてそれに答えた。フィリップは軽く会釈して、ラウラを見る。そして告げた。
「君の質問に答えよう。私が、君を殺さない理由を」
彼女は無言のまま、彼を睨み続けていた。その小さな姿に対して、フィリップは静かに告げた。
「ラウラ。君は魔女『ラウラ』ではない」
「……どういうこと……?」
ラウラの静かな声は、確かに狼狽を含んでいた。
「君は先ほど、前の『ラウラ』をあの憲兵が殺したと言った。そして、彼はこちらに来てまだ日が浅い、と憲兵隊長が言っていた。つまり彼は、つい最近東部から来たのだろう。という事は、王都に来た理由は最近『ラウラ』を殺してしまったため東部にいられなくなったから、と関連づけて仮定する事が出来る」
押し黙ったラウラは、未だにフィリップを上目で睨んでいる。彼は椅子に座っているのに、立っている彼女の目線はまだ下にあった。
こんなに小さい少女なのだ、とフィリップの中身が嘆く。彼の外側は眉一つ動かさず、瞬き一つせず、声はひどく冷静だ。
「この仮定に則るならば、前の『ラウラ』はつい最近まで存命していたという事になる。君はまだ幼い。君が『ラウラ』になるまでもなく、前の『ラウラ』はまだ現役だったはずだ。まだ客を取れる『ラウラ』を殺し、幼い君一人を残してしまった憲兵は、恐らく責任を問われ居辛くなったため、東部から王都に転属して来たのだろう。彼女が客を取れなくなったという理由で殺されたのなら、あの憲兵が王都に出てくる理由は無いし、また『ラウラ』がいるのなら、後継であっても未だ幼い君が客を取っていた可能性は低い。だから、君はまだ『ラウラ』では無かった、と考えた」
「……私は『ラウラ』よ」
最早蠱惑的な笑みを浮かべる事は出来なくなり、それでも必死に『ラウラ』たろうとする彼女は、涙を浮かべた目で、かすれた声でそう言う。
「君が復活を演じ、空間移動を演じた理由がこれではっきりする。君は『ラウラ』になるために、その昔『ラウラ』であった伯爵夫人の軌跡をなぞる事で、自らも本当の『ラウラ』になろうとしたんだろう」
実際、全て偶然だったのだろう。シェリルが東部に訪れて彼女を連れ出したタイミングも、逐われた憲兵が王都に来てあの日アパートに来たのも。もし神がいるのなら、と軍人であるフィリップは一瞬考えて、次の一瞬でその考えを打ち消した。
しかし、彼女は理解しているはずだった。これだけは。
「……そして、我々が復活と空間移動のからくりに辿り着き、君をこうして問いただすところまでは、君の思惑通りであるはずだ。血袋の油紙を回収せずに現場に放置したのは、その一環だ。手がかりを残し、我々がここに辿り着けるように。君は、本当はあの憲兵が王都に来ていた事を知っていたのだろう。だから血袋を用意し、あの憲兵ないし他の東部関係者が来る時を、自分を始末しに来る時を待っていた」
目を閉じていたレオンが、ゆっくり瞼を上げた。彼の黄色い瞳は猫のようで、まるで笑っているようだった。彼は先ほど、ラウラに「自分を過小評価し過ぎだ」と言ったが、それは違う。彼女は彼を正しく評価し、その上で全てを行ったのだ。唯一過小評価したのは、フィリップの行動力のみだったはずだ。
微笑むレオンを視界の隅で捉えながら、フィリップの視線は眼前の少女に向かっている。無感動な瞳が、がくがくと震え出した彼女を見据えていた。
「君は伯爵夫人をなぞりたかった。『ラウラ』になりたかった。伯爵夫人は最後に殺される。先代『ラウラ』も殺された。だから君は今、殺されたがった。完全な『ラウラ』になるために」
ついに堪えきれなくなった涙が溢れ出し、ラウラは膝をついた。フィリップは動けず、レオンとセバスティアンが素早く動いたが、彼女は泣きながらも両腕を振り回し、彼らを近づけさせなかった。それを只眺めるだけだったフィリップは、彼女の心境の変化に気づいていた。
そして、肩で息をしながら、ラウラはゆらりと立ち上がった。いつの間に取り出したのか、その左手に年代物の二連装小型拳銃が握られているのに気づいて、レオンが身を固くしたのが分かった。セバスティアンが間合いを詰めようとして静かに一歩進んだが、それに気づいた彼女は、如何に小型といえども少女の手には余る小型拳銃を、両手で構えた。銃口の先には、無言のフィリップがいる。
「来ないで! 私を殺さないと、貴方達を殺す!」
「それを下ろせ!」
レオンが鋭くそう言ったが、ラウラは拳銃を固く握りしめて離さない。
「私は『ラウラ』になる! ならなくちゃいけない! 死ねば、殺されれば私も『ラウラ』になれる!」
絶望的な声で叫ぶ彼女は、その赤い瞳にありとあらゆる憎悪を焼べて焚き付け、暗い炎を灯していた。
「前の『ラウラ』が言ってた! その前の『ラウラ』も、その前も、その前もその前も、皆殺されたって! 私も『ラウラ』になるために、殺されなくちゃいけない!」
「それはお前自身が死ぬ理由にならねえだろうが!」
レオンも負けずに叫ぶが、ラウラは首を振る。
「『ラウラ』が言ってた。『ラウラとしての誇りを持て』って、『村人を憎むな』って、『魔女である事を恥じるな』って。私もああなりたい、ああならなくちゃいけないと思った!」
彼女の声と一緒に、小型拳銃が震える。
「あの兵隊は『ラウラ』を殺した。でも、私は彼を憎んじゃいけない。彼も大事な『村人』だから、私を生かしてくれるから。だから、あの時「黙っていてくれたら、私が貴方の『ラウラ』になる」って言った」
つまり、あの憲兵がラウラに協力したのは「弱み」だけでなく、「見返り」の存在があったからだったのか、とフィリップは思った。レオンの目には、心底不快そうな光が宿っている。
「……これで憲兵がこの件に噛んだ理由がはっきりしたな。あの憲兵は『ラウラ』を得る事と『ラウラ』が全てを話しちまう事を天秤にかけて、後者を取ったという事さ。勿論、あの将校の助言あるいは恫喝の上でな」
彼がそう言うのを、フィリップは黙って聞いていた。が、ラウラは声を絞り出す。
「前の『ラウラ』は本当にキレイだった! だからああなりたかった、私も『ラウラ』に、赤毛赤目の『魔女』に! だから、私を」
彼女はまだ何かを叫ぼうとしたが、止まった。
ラウラが泣き崩れてからも毛筋一つ動かしていなかったフィリップが、根が生えたように座っていた椅子からゆっくりと立ち上がったからだ。
彼は小柄な少女を見下ろした。そして、ゆっくりと口を開いた。
「では、何故シェリルと一緒にローズロットを出た?」
フィリップの静かな声は、奇妙なまでに部屋中に響いた。
ラウラはその小さな唇をぽかんと開けて、そして、ようやく一音だけ発した。
「……え?」
「『ラウラ』になりたかったのなら、ローズロット城を出る理由は無い。シェリルの話を無理にでも断って、あそこに居れば良かった。断れたはずだ。いざとなれば村人を頼る事も出来ただろうし、その拳銃で実力行使をする事も出来たはずだ。しかし、君は城を出た。それは何故だ?」
そう問う黒い瞳は、ただラウラを見ているだけのように見えた。
「そ、れは……」
「矛盾している。矛盾するという事は、どこかで間違えているはずだ」
レオンの台詞をなぞりながら、フィリップは自分の顔が奇妙に歪んでいる事に気づいていた。
「君の意思は固い。本当に『ラウラ』になりたかったはずだし、今でもそうだ。そんな君が志を遂げる事が出来る場所を捨てる事は、まずありえない。が、実際に君はここにいる。つまり、君がここにいる理由は、君の心情のさらに上に存在する」
ラウラは大きく目を見開き、彼を見ている。その目には恐怖の感情が宿っていた。フィリップは言葉を切って、違和感を感じている自分の口元を触ってみた。
口元は、確かに微笑んでいた。左の口角だけが奇妙に引きつった、自嘲的な笑みだった。
「……すまない」
彼がそう呟き、口元に置いていた手を下ろした時には、元の鉄仮面がそこにあった。
「君の心情のさらに上とは、君自身の抱く感情に他ならない。それは、尊敬だ」
びくり、とラウラの肩が跳ね上がる。その拍子に軽い引き金が反応して、彼女の握る拳銃が小さな音と共に火を噴いた。それから目を離さなかったレオンとセバスティアンが、銃口の先にいるはずのフィリップの方を驚愕と不安の目で追った。
立ったままのフィリップには情動の一つもないようだった。彼の軍服は左の袖が小さく破けて、手の甲に薄く血がにじみ、座っていた椅子の背もたれには小さな弾痕が穿たれていた。ラウラは震える手から拳銃を取り落としたが、誰もそれを拾おうとはしなかった。
何事も無かったかのように、フィリップは口を開く。
「君はある人物への深い尊敬から、自らの意思を一旦捨ててまで城から出てきた。が、それが捨てきれなくて、今の状況が生まれた」
彼はラウラから目を離さず、彼女もまたフィリップから目が離せない。レオンとセバスティアンはすでに警戒を解いて、黙ってラウラを見ていた。
ぱちりぱちり、という音が聞こえて、フィリップは自分がホルスターの留め金をいじっている事に気づいた。緊張しているのだ、と思った。その小さな軽く固い音は、滑稽なほどのんびりと部屋の中で響いていた。無機質なその音と同じような、無感動な声が淡々と紡がれる。
「君の尊敬の対象は、君が教えてくれた。先代の『ラウラ』は、君に『ラウラ』としての矜持を教え、君を育て、この言い方が許されるのであれば、君の母親のような存在であったはずだ」
「あ、ああ」
ラウラは呻いて後ずさった。フィリップは一歩踏み出そうとしたが、彼の足は動かなかった。ぱちりぱちり、と留め金をいじる指先だけが動いていた。
「これが矛盾の正体だ。君が城を出た理由は、先代の『ラウラ』の存在に他ならない。では、先代の『ラウラ』は、君に何を言った?」
「ああ、う」
「君が城を出る理由にするほどの重い言葉だ。恐らく彼女の最期の言葉だったはずだ」
フィリップは理解していた。彼女の気持ちを、彼女の感情の根源を。
本当は彼女を慰めたかった。彼女の気持ちが分かるからだ。
尊敬する人の背中を追いたかった。あわよくばその隣に立ちたかった。しかし、それは尊敬する人に拒まれ、なし得なかった。
本当は拒まれているわけではない、自分の事を思ってくれているからだと理性は理解していた。しかし、感情はそれを理解しようとはしない。追いたい気持ちと追ってはならない気持ちの狭間ですり潰された感情は、憎悪に似た諦観で自棄を起こす。それになりたい、と吠えるのだ。そしてそれに近づく為なら何でもしたくなる。生け贄の山を築き上げ、自らの命すら投げ捨ててそれに届こうとする。彼には、それが良く分かっていた。彼も一緒だったからだ。
同じ魂の持ち主は、惹かれ合うのだ。
「彼女はこう言ったはずだ。「『ラウラ』になってはいけない」と。彼女は確かに『ラウラ』としての矜持を君に伝えたのだろうが、しかし彼女は分かっていたはずだ。この『ラウラ』という存在が、その矜持が、決して他人に肯定されない事を」
「ち、ちが」
「違わない」
そう告げながら、優しい言葉のかけ方が分からなくて嫌になった。指先に感じる留め金の堅い感触とそれが鳴らす小さな金属音が、彼を怒りと自虐の念から現実へとどうにか引き止めていた。
「彼女は言ったはずだ。城から出ろと。村人の目の届かない遠くへ行って」
幸せになれ、と言ったはずだ。が、その言葉はどうしても口から出てこなかった。ラウラはまた床に膝をつき、さらに小さくなってフィリップを見上げていた。本当は彼も膝をつき、彼女と同じ目線になりたかったが、身体は動こうとしなかった。彼女を見下ろす格好のまま、彼は話を続ける。
「偶然シェリルが来て、君を連れ出し、死んだ『ラウラ』の願いは実行された。君は拒否する事が出来たが、それでも尊敬する『ラウラ』の最期の願いを叶えない事は出来なかった。だから城を出た。しかし君の意思はそれを守りきれず、何もかもが揃ったあの日に爆発した。そして、君は復活と空間移動を成し遂げて『ラウラ』になろうとした。それがこの事件のきっかけで、動機だ」
ラウラは唇をわななかせ、その赤い瞳の端にまた涙を溜めていた。レオンもセバスティアンも彼女を直視出来なくなったようで、床に目を落としている。フィリップとラウラだけが、静かに見つめ合っていた。
「……もう一度言うが『ラウラ』の願いはすでに実行された」
フィリップは静かに言う。
「君が『ラウラ』になる必要は無いし、もう『ラウラ』が存在する理由は無い。それが『ラウラ』の願いであり、思いだ。そして、君はそれを理解している。……だから、もう『ラウラ』は存在しない。存在しないモノは殺せない。だから、私は君を殺さない。これが答えだ」
フィリップは、厳かな声でそう結んだ。ラウラの大きく見開かれた両の瞳の端から、そこに留まりきれなくなった涙が二筋流れ続けていた。
「なんで、なんで……」
「分かったのか、だろう」
「……………」
赤毛で赤目の少女は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で彼を、救いを求める目で見ていた。
また自分の鉄仮面が歪むのが分かった。しかし、今度はそれを理解する必要は無かった。
フィリップは、心から微笑んで言った。
「君と私が、同じモノだからだ」
それを聞いて、床に突っ伏して泣き出した彼女と、精魂尽き果てた表情になり、椅子に倒れ込むように座った彼を、レオンは交互に見て、それからフィリップの肩を叩いた。
「ご苦労」
「……ありがとうございます」
ラウラの背中をおろおろと眺めるセバスティアンを霞んで揺れる視界の中で捉えて、フィリップは目を閉じた。




