事件の解答 3
それを聞いた途端、胃からこみあげてくるモノが抑えられなくなって、フィリップは顔を背けて嘔吐した。床に殆ど胃液の吐瀉物がぶちまけられ、閉め切った部屋に酸っぱい嫌な匂いが立ちこめる。
一番素早く動いたのはレオンだった。椅子から転げ落ちるようにして床に膝を付いたフィリップの背中を優しくさすりながら、セバスティアンに白湯を持ってくるように告げ、それからラウラを呼んだ。
「何か拭く物を持ってきてくれ」
「かしこまりました」
この世の全てを恨むような声だと、フィリップは思った。喘息患者のような、ぜいぜいという自分の呼吸音が嫌でしょうがなかった。それから、この程度で吐いた自分が情けなくなった。少しだけ涙が滲んだが、あるいは過呼吸の所為かも知れなかった。
セバスティアンが持ってきた白湯を飲んで、軍服の詰め襟を外し、大きく深呼吸をして、ようやくフィリップの頭は多少の冷静さを取り戻した。
「すまん、こんなところで話すんじゃなかった。暗いし狭いし息苦しいしな。セバスティアン、窓を開けてくれ」
心底申し訳なさそうな声のレオンに、フィリップはただ頭を下げた。
「私の、好奇心の、代償です」
ちらつく視界と苦しい呼吸のなかで、それだけ言った。レオンは聞き損ねたようで、ぴくりと眉が上がった。
「え?」
「いえ、何でもありません」
椅子に座り直し、もう一口白湯を飲んでそう答え、フィリップは床を拭くラウラにも詫びた。
「すまない」
ラウラは答えず、絨毯をきれいに拭き終わると、ぞうきんを浴室に持っていった。戻ってくると、また部屋の隅に陣取り、そこから動かなかった。セバスティアンが窓を開けて、夜の新鮮で冷たい空気がフィリップの肺を楽にした。
「……続けて下さい」
フィリップが顔を上げて言うと、レオンは心配そうに眉をひそめた。
「大丈夫か?」
「はい」
「……分かったよ」
あやすように呟いて、レオンは話しだす。
「この話がもっと深くなっちまうのは、お前があの将校から聞いたローズロット伯爵夫人の話だ。彼女も『魔女』と呼ばれた。つまり、歴代の伯爵夫人達もまた『ラウラ』だったんだ。いつからかは分からないが、『ラウラ』はずっと古城の小部屋で、いわゆる春を売っていた」
「では、ラウラはやはり、不老不死なのですか?」
フィリップの少し外れた質問にレオンは笑って肩をすくめ、いつもの楽しげな表情に戻った。
「さっき『概念的な不老不死』って言ったよな。つまり『ラウラ』っていうのは皆の名前なんだよ。総称と言ってもいいかもな。あの部屋で春を売ってきた女性の総称だ。ずっと続いてきたんだ。だから『概念的な不老不死』なのさ。名前を継いできたんだ」
「だから、最初にあんな事を聞いたんですか」
「ああ。俺は『何人目なのか』って聞いたな。あれで俺がこの結論を出している事は分かってたんだろ?」
彼は身体をひねり、ラウラの方を向いた。彼女は、全く反応しなかった。
「やれやれ。……まあ、いいさ。とにかく『ラウラ』はずっと続いてきた。選出方法はわからねぇが、選出対象は『赤毛赤目』である事だ。伯爵夫人もそうだったらしいからな」
「しかし、伯爵夫人は何故?」
「この辺は妄想に近いが、最初はいつだかのローズロット伯爵が村娘に手をつけたとか、あるいは村の口減らしの為に伯爵のところに売られたり、奉公に出された娘とかだったんだろ。それを村の男に『売る』ようになったのがいつかは分からん。伯爵夫人は、伯爵の寵愛を受けた『ラウラ』がなったもので、つまり『魔女』だった」
「……では『ラウラ』が、代替わりすると言うのは」
「ああ。それに関連するのが、さっき言いかけた不老不死に関する話なんだがな。お前、ローズロット伯の家紋って何だか分かるか?」
そう問われ、フィリップは、ローズロット城の朽ちた城門を思い出し、その中央にあった石造りのレリーフを思い出す。
「……花に、鳥の羽ですか」
「そうだ。もっと言うと、赤い薔薇に赤い鳥の羽なんだな。さて、問題は赤い鳥の羽って事だ」
レオンは言葉を切って、今度はぐるりと首を巡らし、セバスティアンに笑いかけた。
「セバスティアン、お前の知ってる『不死鳥伝説』について話してくれよ」
博識で忠実な執事は一瞬訳が分からない、といった顔になったが、それでも口は動き出す。
「東部に伝わる伝説の一つです。曰く、東方より飛来した赤い鳥は、羽の色があせて抜け落ち、嘴が欠け、羽ばたく事が出来なくなるほどまで長生きするのですが、いよいよ最期となった時、自らの身を火にくべ、その灰の中で新たな卵となって若々しく転生し、未来永劫生を繰り返すので、不死鳥と呼ばれる……という話です」
「ご苦労。この『東方より飛来する赤い鳥』っていうのがキモだ。ローズロット伯領はこの国の東部に位置し、赤い髪の毛に赤い目の女性がいる」
ラウラはまだ黙ったまま、身じろぎすらしない。そんな彼女を横目で見ながら、レオンは肩をすくめた。
「ちと穿ちすぎたかな。まあ、そういう解釈もあるって事にしといてくれよ。『ラウラ』は不老不死の魔女なんかじゃない、人間の娘だ。歳を取ったりして客を取れなくなったら、自らを火にくべ、新たな卵として転生する。……要するに、代替わりするんだ。強制的というかなんと言うか……うん」
レオンは言いよどんだ。フィリップにも想像はついた。
気がつけば、セバスティアンがうっすら涙を溜めていた。それに気づいたレオンが、彼に笑いかける。
「きつかったら下がってていいぜ?」
「だ、大丈夫でございます」
気丈な執事は、手の甲で眼鏡を押し上げるふりをして涙を拭いた。
そっか、とレオンは微笑んで、話に戻る。疲れた顔をしていた。
「あと、言い辛い話なんだが、多分ラウラの事は東部本営の一部にも知られている。じゃないと軍人が絡んでくる理由が無いからな。少なくとも、さっきの奴らくらい、要するに現場クラスの人間は知ってたはずだ」
「……軍人も、彼女のところに行っていたという事ですね」
「そうだな」
レオンの言葉は簡単だったが、ひどく重かった。
今すぐにあの二人のところに行って、持っているだけの弾丸を全身に叩き込んでやるべき、と頭の片隅が怒りと共にフィリップを焚き付けたが、彼はそれを押さえ込む事が出来た。それも全て、いつも通りだ。
「しかし、その」
フィリップはそこで言葉を止めた。それからラウラの視線を背に受ける感覚を覚えながら、続ける。
「軍人がラウラを秘匿する理由は無いのでは、ないですか」
「だろうな。だから村人は最初動かなくて、結果軍人が動いたんだよ。つまり、この一件は徹頭徹尾口封じの為だったのさ」
レオンは肩をすくめて、それからため息をつく。眉が尻下がりになっているのが、彼の心情を表していた。
「そうだ。存在が無い事にされているちっちゃい女の子の言い分なんざ、普通耳を傾けられる事は無いだろう。妄想か、金目当てくらいにしか思われない。相手が軍人なら尚更だ。俺達の『いつも通り』ならな」
「それは」
フィリップは無理矢理に口を動かす。そう、彼の言う残酷な台詞は、元来自分の台詞であったはずだ。好奇心で全てを知ろうとした、愚かな自分の台詞のはずだ。
しかし、レオンは止まらない。
「最初にこの考え、要するに『ラウラ』が口封じのために殺されかけた、って結論に達した時は流石の俺も荒唐無稽だと思ったよ。だが、まず最初から普通と違った。姉上がこの件の『いつも通り』を全部ひっくるめてぶち壊した、最初の一撃だ」
「……シェリルが、ですか」
「そうだ。あの姉上の性格上、名乗りでも上げてから行動したはずだ。ほら、いつもの『このシェリル=アルモントたるアタシが!』って風にさ。村人には呪文にしか聞こえない『アルモント』の名も、軍人には効果絶大だ」
レオンは呆れたように笑ったが、妙に乾いて擦れたその笑い声は、確かに一抹の怒りを含んでいた。
「さっきの将校も、村人に後で聞いてからビビっただろ。まさか総司令部付の参謀課長の縁者が出てくるとは思わないだろうしな。そこから話はややこしくなった。簡単に換えが効いたはずの『ラウラ』に唯一無二の付加価値がついた。非道を知った前衛的活動婦人の庇護に於かれた『被害者』になったわけだな」
前衛的活動婦人、ともう一回言って、レオンはくつくつと笑った。セバスティアンが非難がましい視線を向けたが、当然気にする様子はない。
「まあ、あれでウブな姉上がそんな事に気づいてた訳が無いんだが、傍目にはそう見られても仕方ないだろ。だからあの将校が出てきた訳だ」
紅茶をぐいと飲んで、レオンは嘆息した。
「今も言ったが、姉上がこの事に気づいてたのかどうかは分からん。かなりの確率で知らなかったんだろうが、何にせよ『ラウラ』を生きた状態で連れ出しちまった。村人が軍人の誰かに報告し、事が荒立つ可能性を知ったあの将校は焦って、当然王都まで登って来て姉上の事を調べる。ところがどっこい、目的の『ラウラ』は俺のところに行っちまってた。そりゃ当然、俺のところに来るさ」
ラウラを殺しにな、とレオンは言って、また嘆息した。
「で、俺の家で銃撃戦だ。最悪のパターンだぜ実際。お前も俺も完全にとばっちりだしな。ところがラウラは生きてて、お前がこの事件に興味を持っちまった。まさかお前が総司令部の人間だとは思わなかったろうし、しかもいきなり自分のところに現れたかと思ったら『ローズロット城を調べる』ときたもんだからさらに慌てて、城でお前を亡き者にするつもりだったんだろ。まあ、ダメだったわけだがな」
「では、憲兵は?」
フィリップが訪ねたが、レオンはゆっくりと首を振った。
「あんまり焦るなって。これでようやく今回の一件の半分なんだぜ?」
そういえばそうだった、とフィリップはまるで他人事のように思った。まだ不可思議な事は残っているのだ。
「後は、ラウラが撃たれた後に生き返って、台所に移動していた事ですか」
「ああ。これの説明は、イコールでローズロット伯爵夫人の『伝説』に関わってくると俺は踏んでる」
「……どうしてですか?」
「大体同じような手法だと思うんだよ。まあ、事件の内容が似てるんだから手口も似てるのは当然だ。……まずは、ラウラが死んでなかった件からかな、うん」
やけに恥ずかしそうな声だったので、フィリップは訝しげに尋ねる。
「あの件が一番不可解で分からないと思いましたが」
「いやぁ、あの時は動揺してたからさ、凄い単純な事に気づかなかったんだ」
弁解するようにそう言うと、彼は頭を掻いた。
「あのガキがラウラに向けて発砲した時、ラウラはお前のどっち側にいた?」
「……右にいました」
「だよな。俺もそう覚えてた。それだけで良かったんだよ。うちの玄関から発砲して、お前の右側にいて、且つお前の方を向いてる、つまり玄関に対し身体の右側を晒してたラウラの左側頭部に着弾する事がありえるか?」
からかうようなレオンの口調に、フィリップも思わずつられて微笑むところだった。実際には無表情のままではあったが。
あの日の台所の事が脳裏に蘇る。ラウラは確かに血で染まっていたが、血の痕は比較的左側に集中していた。
そして、それはおかしい事だ。
「玄関から、お前の右にいるラウラの左側頭部に弾を当てるには、テーブルに対して背を向けてないといけない。テーブルに背を向けたまま給仕が出来るわけが無いし、そもそもお前に紅茶を注ぐ所だったんだから後ろなんて向いてるはずが無い。これで証明終了だ。あの段階で、ラウラには弾が当たってない。俺が突き飛ばした時に血袋でも使ったんだろ。ラウラは左利きだから、とっさに左側で潰しちまったんだ」
そう言われて、フィリップは、彼女が左手に持っていた重いポットの事、そしてあの時に血だまりの中で拾った油紙の事を思い出した。ポケットからハンカチにくるんでそれっきりになっていた油紙を取り出してテーブルに置くと、レオンは得心がいったように頷き、それを慎重に広げた。ぐしゃぐしゃになっていたが、それは確かに袋状になっている。
「これだな。俺もお前もセバスティアンも慌ててたし、見られずにこれを潰すのは容易だったろ。そういや脈も確認してねぇや。やれやれ、俺も耄碌したかな」
確かに、フィリップ自身も彼女の『死亡』あるいは『生存』を確認していない。状況が余りにも突飛だった事、生存率の低い頭部へ銃弾が当たった(と思い込んでいた)事、憲兵が意外と早く着いた事で、検証のため現場保存を優先してしまった事が思い浮かぶ。いや、それ以前に、彼女に触れたくなかったのだ。理由はともかく。
また少しだけ恥ずかしくなって、フィリップの高い鼻から微かな息が漏れた。




