王都にて 2
ローシュが去った後もなかなか寝付けなかったフィリップは、ガラスのコップを出して来て、水差しの水をそれに注ぎ、一息で飲み干した。カーテンの隙間から漏れる一筋の月明かりが、彼の持つ水差しに当たって、ナイトテーブルの上にゆらゆらと影を作っていた。
その波を目で追いながら、彼は静かに水差しを置いて、それから久しぶりに味わう自らのベッドの寝心地を堪能しようとしてみた。固めのマットレスに寝転がってみると、やはりしっくり来た。
疲れているのは大いに認める所で、当然の如く身体は重く、正直に言うなら終始だるさは感じているし目の前はちらつくし足下も覚束ないのだ。しかし自業自得だと考えていたので、彼はやせ我慢を続けていた。
体調不良の理由ははっきりしていて、その理由を自分で消化しきれないのが体調不良の原因なのだ、とフィリップは分析してみた。その理由とは、全く『ラウラとは何者か』に尽きる。
そうだ。問題は『ラウラとは何者か』なのだ、と思った。自分の好奇心の理由はそこなのだ。
「では、その理由は?」
唐突に聞こえた声にぎくりとして動きを止め、首を巡らせてみたが、誰かがいる気配はない。どうやら自分が呟いた言葉に驚いたらしい、と気づいて、彼は一瞬眉をひそめ、それから目を閉じた。
理由の理由は、考えたくなかった。考えたくない理由も考えたくなかった。ただ、知りたかった。誰かが教えてくれるといいのに、と思って、フィリップは唇を噛んだ。
駄目だ。他力本願に過ぎる。これは自分の懊悩なのだ。自分の懊悩は、自分で解決しなくてはいけない。
何故?
違うからだ、これまでと。これまでは自分の事件では無かった。他人が起こした他人の事件を解決する為に奔走していたのだ。それが彼の仕事だ。
が、これは違う。自分が勝手に抱いた好奇心に因って自分が勝手に起こした事件なのだ。ならば。
ならば……?
これまでと何が違う?
違う。他人の起こした事件は自分のモノではない。これは自分の起こした事件だ。自分のモノだ。
自分のモノでなければいいのか?
一体自分は何を考えている?
どうしようとしている?
口の中に鉄の味が広がるのを知覚して、彼はようやく唇を噛むのを止めた。人差し指で触ってから、腕を伸ばして窓から漏れる月明かりに晒してみると、やはり血が出ていた。
赤い。
ラウラの事を思い出す。
あの冷たくて暗い、静かな赤い瞳の事を思い出す。
長くて目にかかっている、深く赤い髪を思い出す。
顔の左側が真っ赤に濡れた、磁器のような白い肌を思い出す。
フィリップは、自分の腕にふつふつと鳥肌が立っていくのに気づいた。嫌悪か、畏怖か、恐慌か。
自分はあの少女を恐れている? 否、あの少女の正体を知る事を恐れているのか?
自問と自答を延々繰り返す彼の頭の中は、真っ赤な景色でいっぱいになっていた。
気がつくと、彼はローズロット城の小部屋に一人で立っている。部屋の中は一本のほとんど溶けた蝋燭で辛うじて照らされていて、フィリップの影は正面の壁に映り、揺らめいている。
それは影ではなくてラウラで、彼女はあの黒いドレスを着ていた。肩口が大きく開いたそれはラウラにぴったりと合っていて、哀れなほど細い腰の線がくっきりと浮かんでいた。死人のように白い肌に二つの赤い瞳がぽっかり浮かんでいて、少し長めの赤い前髪が、風も無いのにさらりと揺れた。二人は静かに対峙していて、長身のフィリップは彼女を見下ろし、小柄なラウラは彼を見上げていた。
お互いに何も喋ろうとしない。身動きもしない。ただお互いの瞳を覗き込んでいるだけだ。まるで、お互いの中身を探ろうとしているように。
何の前触れも無く、彼女の額からつう、と赤い血が流れて来て、頭の左側があっという間に赤で染まる。彼女はゆっくりと椅子に腰かけた。その椅子は、あの日台所にあった椅子で、ラウラは行儀よく手を膝に置き、さらに低くなった目線でフィリップを見上げる。
小さな音を残して蝋燭が消え、部屋の中は真っ暗になって、何も見えなくなった。しかしラウラだけははっきりと見えていて、彼女は赤く染まった顔でじっと座っている。
ふと奇妙な温もりに気づいて自分の左頬を触ったフィリップは、指先が濡れるのを知覚し、次いでそれが血である事に気づく。指を見やると、赤黒いぬめった液体が、べっとりとくっついている。
目線を戻すと、目の前のラウラが口元を動かし、目を細めて、表情を作ろうとしているのが分かった。
彼女はきっと、笑おうとしている。
フィリップの無意識がホルスターの留め金を触ろうとして、そこに何も無い事に気づいた。それで、彼は現実に戻ってきた。
軍総司令部にある宿舎の自分の部屋のベッドで、彼はぼうっとして寝転がっていた。その事をきちんと認識するまで、少し時間がかかった。
寝返りを打ってみると、左の頬に水分を感じた。汗だろう、と考えて、それ以上は思考しなかった。
まだ時間は真夜中で、静かな室内で時計の振り子だけが動いて音を立てている。フィリップは起き上がって、洗面台に向かった。唇から出ている血の味が嫌で、口を濯ぎたかったのだ。
しかし、部屋の真ん中で彼は立ち止まった。思い出したのだ。洗面台には、鏡がある。
鏡には自分が映る。嫌悪感を生む、自分の顔が。
逡巡したフィリップは、水差しに気づいて、戸棚の中からタオルを出してきた。水差しの水をそれに少し零して濡れタオルを作ると、それで口元を拭った。少し傷に沁みた。タオルには血の痕が残った。
ラウラの色はこの色ではないな、とフィリップは思った。それで、ふと考えた。あの赤色は、何なのだろうと。
血の色ではない。紅茶の色に似ている気もするが、それも違う。紅茶では薄いのだ。もっと濃い。赤黒いと言ってもいいが、血ほど品のない色ではない。
ラウラに対する疑問が増えた事に気づいて、フィリップは頭を振り、またベッドに寝転んだ。そして、思い出す。
好奇心だ。自分は、あの少女に好奇心を抱いたのだ。それがこの事件の最初だったのだ。
ならば、最初に答えがあるのか?
彼女と初めて会った日の事が頭に浮かぶ。彼女の赤い瞳と、一瞬交錯した視線から感じた何かが胸に去来して、フィリップはまた思い出す。
真っ赤に染まって倒れ伏した彼女を見た時、自分の内側に感じた空虚感。あれの理由は、何だったのだろう。
空虚を感じるという事は、そこに何かが在ったわけだ。それが無くなったから空虚が生まれる。倒れたラウラを見てそれを感じたという事は、つまり空虚の部分に在ったのは……。
「馬鹿な」
静かに呟いて、彼は寝返りを打ち、壁紙を見た。白い壁紙は夜の光に染まって、薄い青に似た色になっていた。それを眺めながら、あの日のラウラを思い出す。
本当に一瞬だけだったのだ。彼女は彼の前にカップと皿を置き、紅茶を注いだだけなのだ。一言も交わす事は無かったし、それこそ一瞬で彼女は『死んで』しまった。でも、あの赤い瞳も赤い髪の毛も、長めの前髪も白い顔も、酷く鮮明に彼の中で像を形作っていた。
何故だろう。気になったからか?
では、何が?
確かに痩せて小柄で顔色も悪かったが、顔立ちは整っていたし、そういった意味で人を惹き付ける容姿だったろう、と考えて、また何となく自己嫌悪に陥った。
自分の女性不信、というか女性に対する潔癖も大概である、と思い、それでレオンの事を思い出した。あの軽薄に笑う元上司なら、なんと言うだろう。
すぐに答えは出て、フィリップは心の中で満足げに嘆息した。
彼は、絶対に茶化す。そして、真面目に事に当たろうとするだろう。どういう方法か、フィリップの思いも寄らない形で。
彼は、今度は口で嘆息した。そして、むくりと起き上がった。
今のが正解だ、と彼の中身が告げた。
フィリップはベッドからゆっくりと降りた。そして、小さく頭を振ると、大股で洗面所へ向かう。洗面所の扉のノブを掴み、彼は目を閉じて深く息をつき、ゆっくりと扉を開け放って中に入ると、静かに閉めた。
そして、鏡の前に立った。冷たい半眼の黒い目と乱れた短い黒髪の自分が、無表情のままそこにいる。
「お前の」
そこまで呟いて、彼は鏡の中の黒い瞳を覗く。
黒い瞳は無表情に彼を見つめ返していた。フィリップはその視線を受けながら、静かに告げる。
「お前の事を考えている暇はない。失せろ」
レイムズには怒られるだろう、とぼんやり思った。だが今だけは、自分の身体も無表情も懊悩もどうでもいい。そんなモノは後で考えられる。自分の事なのだから。ラウラの事が解決してから、じっくり考えてやる、と彼は思った。
その時、鏡の中の自分の目が赤い事に気づいて、フィリップは小さく呻いた。思わず鏡から目を離し、恐る恐る視線を戻した時には、もう元の黒に戻っていた。
勿論、疲労から来る錯覚だったのだろう。しかし彼はもう一度鏡と相対し、自分の虚像を睨む。黒い瞳はあくまで冷静に見えた。
フィリップは、もう一度それに向かって呟く。
「失せろ」
さあ、と何かが融けて流れた音がした。
これも気のせいだったかも知れない。が、それでも良かった。鏡像の自分が、何故か納得した風な無表情になっている、気がした。結局、いつだってそんな気がするだけなのだ。ただ、効果の有無は別にして。
洗面所を出て、また小さく息をつき、それから水差しを掴むと、中の水を一気に飲み干した。口元を袖で拭って、ベッドに飛び込むようにして転がり込み、ぎゅっと目を閉じた。
少しだけ、恥ずかしかった。
枯竹四手です。宜しくお願いします。
連載16話目の投稿です。
この辺りが、書いていて一番へこんだところです(笑
ここだけ長い事書き直しまくっていました。




