始まりの香り
その朝、フィリップ=アルトゥールは洗面台の鏡の前に立っていた。
彼はおしゃれに無頓着で、どこに出かけるにも詰め襟の軍服だったし、軍人なので軍靴をピカピカに磨き上げる事は忘れなかったが、頭は寝癖だらけの日が度々あった。勿論洗面台など、文字通り顔を洗う時か歯を磨く時くらいしか縁のない物だが、しかし、今日は空中演習場で観艦式が行われる日で、そういうわけにはいかない。
彼の身の回りの世話をしてくれている少年兵が、使う事が無くて埃をかぶっていた制式軍帽と式典用インバネスにブラシをかけ、いつも自室の引き出しに放り込んであるだけの勲章類を磨いて、これまたブラシをかけた軍服の胸に付けてくれた。ついでにいい匂いのするヘアクリームを持ってきてくれたのだが、それを付けずに出て行こうとして怒られたのだ。
どうせ帽子をかぶるのに、と思いながら、フィリップはヘアクリームを少し付けて、それから櫛を使って短い黒髪を後ろに適当に撫で付けた。ヘアクリームのおかげか、いつもより格好がついた気がした。勲章の並びを確認し、インバネスの肩に降ってきた埃を丁寧に取り払い、軍帽を目深にかぶって、彼は一安心した。
ふと、鏡の中の自分と目が合った。鋭く光る黒い瞳も真一文字に結ばれた口元も軍人らしからぬ白い肌も、いつも通り無感情に自分を見返していた。鑑の中の自分は、いつも通りだ。
そんないつも通りの無表情が何故かやけに怖くて、フィリップは足早に洗面所を後にして、部屋をざっと見渡してから廊下に出た。冬めいてきた廊下はインバネスを羽織っていても少し寒くて、彼は小さく身震いした。少年兵はきっちりとした敬礼をして、フィリップは何かの期待でいっぱいな彼の瞳が見えない様に、答礼した手で目線を隠した。
ふと窓の外に目をやると、触れば切れそうなほど澄んだ青い空に浮かぶ、飛行戦艦の艦隊が見えた。演習場に向かうのだろう。豪快に煤煙を吐き出す二本の煙突も、天と地に向けられた主砲や副砲群も、前面にある装飾を施された装甲板も、今日のために全てが磨き上げられ、朝日を浴びて光っている。その横を複葉機の編隊が飛んでいくのを見上げていたら、窓に自分の顔が薄く映っているのに気づいた。やはり、無表情だった。
それが無性に嫌で、窓から顔を背けた彼は、右腰に吊ってあるホルスターの留め金を無意識にいじっている指を知覚した。いつもの癖が、妙に滑稽に思えた。
こんな事は滅多に無い、と彼は考える。どちらかと言えば代わり映えの無い日常に平穏と安息を感じるタイプの人間だという事は自覚している。物心ついた時から付き合っているこの仮面めいた表情に、こうも苛つかされるのは初めての経験だった。
廊下の先から少年兵に急かされ、彼は自分の中に生まれた不思議な感情を振り払うかのように歩みを早める。何かの予感なのかと思ったが、当然心当たりはない。
歩きながら、午後の予定を決めた。尖った神経を鎮めるには、最良の場所だ。
煙と煤の匂いが支配する王立軍総司令部の廊下に、一瞬だけ甘い匂いが漂った気がした。
太陽が頂点からほんの少しだけ傾き始めた頃、フィリップは午前中の結果として、少なからず不快な気持ちで蒸気車を運転していた。
まず、出勤直後に飲んだコーヒーがやけに甘かった。甘いのは好きだが、甘すぎるのは嫌いだ。部下のおっちょこちょいな中尉が、角砂糖を入れすぎてしまったに違いない。コーヒーを置いた後、逃げる様に立ち去った理由は恐らくこれだろう。それでも結局「淹れ直してくれ」とも言えず、コーヒーは飲み干したが。
次に、廊下でばったり嫌な上官に遭遇した。胸に付いた大量の勲章がきらきらと朝の光を反射して、眼にちらついた。話し方もいつも通り高圧的で尊大で、それでも黙って聞いていなければならない。彼の軍政に対する意見を首肯で聞き流しながら、久しぶりに階級というものを呪いたくなった。
最後に、仕事を一旦終えて出かけようとした所、最近不調だった愛車がついに動かなくなった。調べてみたら蒸気管が一部破れていて、熱い水蒸気が漏れている。道理で速度が出なかったはずだ。他の部分もあちこちガタが来ていたようで、修理の為に呼んでもらった工兵はエンジンを一瞥するなり目をしばたたかせ、顔を上げるなり「少しかかりますねぇ」と遠慮がちに言ったのだった。自分の手前「少し」と言ったに違いない。正直機械に疎い彼にも、相当面倒な作業であろう事は察しがついていた。
仕方ないので、不慣れな別型車で出かける事になった。新型の蒸気車で、見た目もスマートだしパワーもあったが、いかんせんレバーの位置やペダルの具合が少しずつ違う。スロットルの調子もいまいち掴めず、おかげでどうもぎくしゃくした運転になり、自らの若作りも相まって、傍目から見れば「運転覚えたての新任将校」に見えただろうなと思い、時たまガクンと揺れる車内で、思わず小さなため息が出た。
フィリップは自分が元々タイミングや運、ついでに愛想も人相も悪い事を承知していたが、それは不愉快に対する慰めにはならないし、それが重なるこの状況を「いつも通り」だと考えられるほど呑気にもなれなかった。
室内鏡にちらと映った自分の黒い瞳を見て、フィリップはまた小さく嘆息する。表面に無感情な光を宿したその眼は、その奥の情けない気分すらも覆い隠していた。
無表情の裏で重い車体の制御に四苦八苦しながら石畳の坂を下り、その中腹にあるアパートメントの前に車を停めると、ほのかに甘い匂いがして、彼は先ほどとは少し違う意味で嘆息し、車を降りた。
下町のアパートメントにしては珍しい電気式の呼び鈴を押すと、すぐにドアが開いて、見慣れた執事服の青年がにっこり微笑みながら現れ、フィリップを認めるとゆっくりお辞儀をした。
「いらっしゃいませ、フィリップ様」
フィリップが軽く頷いてマントを脱ぐと、彼はそれを片腕で丁寧に受け取り、もう片方の腕を伸ばして、恭しく部屋の奥を示した。
「レオン様がお待ちです」
枯竹四手です。宜しくお願いします。
推理仕立てスチームパンク風味、という体でお願いします(笑
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