第1話 毒の味を知っている
「この女に相応しい末路だ」
冷たい声が、石壁に反響する。
喉を焼く液体を飲み干した瞬間、世界が歪んだ。視界の端で、金髪の男——王太子セドリックが背を向けるのが見える。隣で泣いているのはリーリア。いつも通りの、計算された涙。
(ああ、知ってる。その涙は嘘よ)
声にならなかった。舌が痺れて、もう動かない。
牢の格子越しに、社交界の華だった自分の名前が囁かれている。悪役令嬢エレノーラ・フォン・ヴァイス。聖女を虐げた罪で断罪され、投獄され、そして——毒を盛られた。
義母は何も言わなかった。
父はもういない。
誰も、助けに来なかった。
意識が沈んでいく直前。
牢の隅から、小さな足音がした。
「お嬢さま……奥さまの部屋の、暖炉の裏を……」
しわだらけの手が格子に触れた。母の、昔の侍女だった老女。泣きながら何かを伝えようとしている。暖炉の裏——?
その先は、聞けなかった。
毒が、すべてを奪った。
* * *
春の光が瞼を刺す。
——痛い。
いや、違う。明るい。明るくて、痛い。
飛び起きた。
天蓋付きの寝台。見覚えのある薄桃色のカーテン。窓の外では小鳥が鳴いている。
牢獄の黴臭さも、喉を焼く毒の苦みもない。代わりにあるのは、洗い立てのシーツの匂いと、窓辺に飾られた白い花。
「お嬢さま? お加減が悪いのですか?」
侍女のモニカが、盆を持ったまま目を丸くしている。
——この部屋。この花。この朝の光。
私は知っている。
ここは伯爵邸の、私の部屋だ。王太子殿下との婚約パーティの、少し前。つまり、断罪の三年前。
「……今日は、何日?」
「四月の十二日ですが」
「年は」
「え? えっと……聖暦一〇一四年ですけど」
一〇一四年。
間違いない。三年前だ。
手のひらを見る。毒で黒ずんだ指先はない。十八歳の、傷ひとつない手。
(戻った——のか)
どくん、と心臓が鳴った。
一度目の人生が、濁流のように押し寄せてくる。義母に操られ、王太子妃候補に仕立てられ、社交界の裏方を一人で回し、それでも「悪役令嬢」と呼ばれ、最後は毒で殺された二十一年間。
あの人生では、復讐に走った。義母を告発しようとして証拠を掴めず、王太子に直談判して狂人扱いされ、暴走した末に自滅した。
——もう、いい。
息を吐く。深く、長く。
天蓋のフリルを見上げながら、私は静かに決めた。
復讐はしない。
セドリックも、リーリアも、義母も——もう関わらない。全部知っている。誰が何をするか、どんな筋書きで私が断罪されるか、ぜんぶ。だから今度は逃げる。静かに、自分の人生を生きる。
あの老女の言葉も、いつか確かめよう。暖炉の裏に、何があるのか。
でもまずは——。
(……おなか、空いたな)
日本人だった頃の記憶が、ふと浮かぶ。
一度目の人生では、王太子妃候補として厨房に立つことなど許されなかった。料理は使用人の仕事。令嬢が包丁を握るなど、はしたないと。
——ただ一度だけ、こっそり作ったことがある。セドリックに差し出して、「庶民の味だ」と笑われて、箸もつけてもらえなかった。あの惨めさは、まだ体が覚えている。
でも今回は違う。誰に差し出すためでもない。自分のために作る。
まだ婚約パーティの前だ。義母の計画が動き出す前なら、私は——自由だ。
* * *
伯爵邸の厨房は、昼下がりの静けさに包まれていた。
「お嬢さま!? なぜこちらに」
料理長のアルベールが、玉葱を持ったまま固まっている。白髪交じりの口髭が、驚きでぴくぴく動いていた。母が生きていた頃から伯爵家に仕えている、実直な料理人だ。
「アルベールさん、厨房を少しだけ借りてもいい?」
「は、はあ……お義母さまにお叱りを受けませんか」
「大丈夫。今日はお出かけだもの」
義母マティルデは、午後から社交の茶会だ。一度目の人生でも同じだった。この日の義母の予定は覚えている。
さて。
鍋を出す。水を汲む。芋に似た根菜を見つけて、皮を剥く。
この世界に醤油はない。でも、豆を発酵させた黒い調味料がある。一度目の人生で社交会の食事を管理していた時に見かけた。あれと、蜂蜜と、塩。少し酸味のある果実酢を足せば——。
(肉じゃが、とは言えないけれど。近いものは作れるはず)
ここから先は、体が覚えていた。
日本で暮らしていた頃の、台所の記憶。母の——日本のほうの母の背中。学生時代に一人暮らしを始めて、最初に覚えた煮物のレシピ。
根菜を切る。鶏肉を一口大に。鍋に油を引いて炒め、水と調味料を加える。
蓋をして、弱火。
甘い湯気が立ち昇った瞬間、厨房の空気が変わった。
「……お嬢さま、この匂いは一体」
アルベールが鍋を覗き込む。後ろから下働きの使用人が二人、鼻をひくつかせながら近寄ってきた。
「煮物よ。まだ味が安定してないけど」
味見をする。——うん、甘すぎる。もう少し塩を足そう。果実酢が強い。でも、方向性は間違っていない。
「お嬢さま、一口よろしいですか」
「どうぞ」
アルベールがスプーンで一口含み、目を見開いた。
「これは……何という料理ですか。このような調理法は見たことがない」
「実家の、古いレシピよ」
嘘ではない。前世の実家の味だ。
* * *
異変が起きたのは、煮物を小鍋に取り分けていた時だった。
廊下から、硬い靴音が近づいてくる。
アルベールの顔色が変わった。
「宰相閣下がいらしています。旦那さまの——先代さまの書庫を確認したいと」
下働きの少年が駆け込んできて、そう告げた。
宰相。この国の最高行政官。名前は確か——ヴィクトル・アーレンシュタイン。一度目の人生では接点がなかった。断罪の時も、投獄の時も、彼の名前は出てこなかった。
靴音が止まる。
厨房の入り口に、長身の影が立った。
黒髪。灰色の瞳。目の下に刻まれた深い隈。執務服を一分の隙もなく着こなしているのに、頬が削げている。
——この人、ちゃんと食べてるのかしら。
職業病のような思考が、反射的に浮かんだ。
「……何の匂いだ」
低い声。感情の読めない目が、鍋の方を見た。
「あ、あの、閣下。厨房にお用でしょうか」
「用はない。匂いに釣られた」
正直な人だ。
ヴィクトルは鍋の前まで来ると、無表情のまま中を覗いた。
「……食べても?」
「えっ——は、はい、どうぞ」
断る理由がない。小皿に煮物をよそって差し出す。
ヴィクトルはスプーンを手に取り、一口含んだ。
沈黙。
二口目。三口目。
無表情のまま、黙々と食べ続ける。アルベールと私は顔を見合わせた。
(……無言で完食するタイプか)
最後の一切れまで食べ終えて、ヴィクトルがスプーンを置いた。
その手が、かすかに震えていた。
——え?
「……名前は」
「エレノーラ・フォン・ヴァイスと申します」
「ヴァイス伯爵家の令嬢か」
「はい」
灰色の瞳が、まっすぐ私を見た。
感情の読めない顔。でも、スプーンを握っていた指先だけが、まだわずかに震えている。
「この煮物を、毎日届けてほしい」
は?
「……閣下、それは」
「対価は払う。条件は追って伝える」
それだけ言って、ヴィクトルは踵を返した。硬い靴音が廊下に遠ざかっていく。
残されたのは、空になった小皿と、呆然とする私と、口髭をぴくぴくさせているアルベール。
(……対価って、何)
春の風が、厨房の窓から吹き込む。
煮物の甘い匂いが、まだ漂っている。
復讐より先に、まずは明日の献立を考えなくては。




