初戦闘
澪が扉の奥にあった装置のようなものに手を触れると、空間がゆっくりと歪み始める。
引き延ばされた風景の中で、ひよりが軽く伸びをした。
「いや〜、久しぶりの戦闘だなあ」
軽い口調とは裏腹に、ひよりの表情は引き締まっている。
「油断しないで。今回は湊もいる」
「分かってるって〜」
そう言いながらも、ひよりは一歩、自然に湊の前へ出た。
ーー守る位置。
意識しているのが、はっきり分かる。
次の瞬間、足元に重力が戻った。
ひやりとした空気。
鼻を刺す、埃と湿気の混じった匂い。
場所は、廃ビルの一角だった。
外から差し込む夕暮れの光が、割れた窓ガラスを鈍く照らしている。
「ここが、歪みの発生地点ね」
澪が言う。
「剣の冠と影の冠は、すでに内部に入っている」
その言葉を聞いた瞬間だった。
――視界が、変わる。
「……っ」
湊は思わず立ち止まった。
現実の景色の上に、
“別の情報”が重なって見える。
ー空間の歪み。
ー壁の亀裂。
床に残る、意味を持たないはずの痕跡。
そこに、文字が浮かび上がる。
《歪:局所》
《侵:進行中》
《残存:二》
喉が、ひくりと鳴った。
「……二体、います」
自分の声が、少し震えているのが分かる。
澪がすぐに視線を向けた。
「確定?」
「はい……多分。まだ完全には出てきてないけど、侵入を試みてる」
ひよりが、目を丸くする。
「おっ、さすが〜」
澪が、短く頷いた。
「それが、字の冠」
湊は、無意識に拳を握った。
怖い。
でも、それ以上に。
――読めてしまう。
視線を向けるだけで、情報が流れ込んでくる。
歪みが、どこから生まれているのか。
どこが薄く、どこが危険なのか。
「……奥です」
自分でも驚くほど、言葉が自然に出た。
「右側の通路。
多分、そっちに一体。
もう一体は……」
一瞬、言葉に詰まる。
文字が、揺れた。
《潜伏》
「……まだ、動いてません」
ひよりが、くっと口角を上げる。
「すご。これ、めちゃくちゃ助かる情報だよ」
澪は、すでに通信機を操作していた。
「剣と影に伝える」
短く指示を出す。
その背中を見ながら、湊は気づく。
自分は、前に出ていない。
戦ってもいない。
それでもー
この場にいる理由が、はっきりしていた。
「……俺」
小さく、呟く。
「役に、立ってますか」
ひよりが、即答した。
「立ちすぎ!」
にっと笑う。
「むしろ、これからもっと頼るからね?」
澪も、こちらを見て静かに言った。
「君の言葉がなければ、
無駄に走り回っていたわ」
胸の奥が、じんと熱くなる。
――分かる。
字の冠は、戦う力じゃない。
意味を、渡す力だ。
「ありがとうございます。……これからどう動きますか?」
問いかけると、澪は視線を奥へ向けた。
「剣の冠が、正面を制圧する」
「影の冠が、裏から動く」
淡々とした声。
「そして、君は――」
澪は、湊を見る。
「この場を、読み続けなさい」
それだけだった。
だが、その言葉は確かに響いた。
戦場の、後方。
誰よりも世界を見て、言葉にする場所。
そこが、自分の立ち位置だ。
廃ビルの奥から、
低く、地鳴りのような音が響いた。
――戦闘が、始まる。
湊は、息を整え、視線を前へ向けた。
文字が、また滲み始める。
これは、始まりだ。
字の冠としての、最初の戦闘。




