五つの冠
洋館の奥へ足を踏み入れると、外とは違う静けさが広がっていた。
廊下は長く、天井は高い。
足音がやけに響く気がして、自然と歩調が小さくなる。
「そういえば」
前を歩いていた澪が、ふと思い出したように言った。
「まだ、名前を聞いていなかったわね」
心臓が、きゅっと縮む。
言われてみれば、ここまで流されるように来てしまって、名乗るタイミングを完全に逃していた。
「あ……」
一瞬迷ってから、口を開く。
「言ノ葉、湊です」
声は思ったよりも小さかった。
ひよりが、すぐに振り返る。
「言ノ葉、湊くんね!」
名前を反復されるだけで、少し照れる。
「よろしく、湊くん。改めて」
にこっと笑われて、思わず視線を逸らした。
「……よろしくお願いします」
澪は一度だけこちらを見て、静かに頷いた。
「覚えておくわ」
それだけだったが、不思議と軽く胸が落ち着く。
そのまま、三人は廊下の奥へと進んでいった。
「ここよ」
澪が扉を開く。
中は、円卓を囲むように椅子が配置された部屋だった。
会議室、と呼ぶのが一番近い。
「座って。長くなるわ」
言われるまま腰を下ろすと、九条ひよりが向かいの席にどさっと座った。
目が合ってにこっと笑う。
さっきと変わらない、屈託のない表情。
ここが異常な世界の拠点だということを、忘れそうになる。
澪は円卓の一角に立ち、淡々と話し始めた。
「まず、前提から説明するわ」
その声で、場の空気が少し引き締まる。
「この世界には、五つの冠持ちがいるわ。妖や歪みが発生する時代にだけ現れる、役割を持った力」
澪は、一本ずつ指を折る。
「知の冠。状況を把握し、判断を下す」
自分自身を示すように、軽く指先を動かす。
「命の冠。生命を繋ぎ、守り、時には立て直す」
「はーい」
ひよりが元気よく手を挙げた。
「回復役って思われがちだけど、結構体張るからね〜?」
「余計な補足は後で」
澪の一言に、ひよりは「はーい」と笑いながら引き下がる。
澪は、次の指を折った。
「剣の冠。最前線で戦う、純粋な戦闘役」
そして、最後の一つ。
「影の冠。潜入、索敵、情報の裏取りを担う」
湊は、無意識に息を呑んだ。
「……じゃあ」
恐る恐る、口を開く。
「残る一つが……」
澪は、こちらを見た。
「字の冠」
その言葉に、胸の奥が静かに波打つ。
「意味を読み取る力。歪みの正体、妖の本質、世界の書き換えられた部分を見抜く」
ひよりが、湊をちらっと見て言った。
「つまりね、湊くんは分かっちゃう人なんだよ」
「……分かっちゃう、って」
「みんなが感覚で動いてるところを、言葉とか意味として見ちゃう人」
ひよりは、少し考えるように首を傾げる。
「正直、めんどくさい役目だと思う」
「ひより」
「でもね」
ひよりは、真っ直ぐ湊を見た。
「いないと困る」
その言葉は、不思議と軽くて、重かった。
澪が話を引き取る。
「冠が発現した瞬間、多くの人は理解する」
「理解……?」
「戦い方、力の使い方。説明されなくても、“そうすればいい”と分かる」
澪は、湊の左手の甲を見る。
「私も、ひよりも、剣の冠も影の冠も。痣が現れた瞬間に、身体が先に動いた」
ひよりがうなずく。
「うん。怖かったけど、迷わなかった」
湊は、指先を見つめた。
自分はどうだっただろう。
意味は読めた。
けれど、どうすればいいのかは分からなかった。
「……俺は」
言葉を選びながら、続ける。
「戦い方なんて、全然分からないです」
澪は、即答しなかった。
一拍置いてから、静かに言う。
「それでいい」
「え?」
「字の冠は、前に出る必要はない。むしろ、出てはいけない場面も多い」
澪は、円卓に手を置いた。
「君の役割は、意味を渡すこと。
私たちが戦うための、判断材料を示す」
ひよりが、明るく付け足す。
「だからさ、湊くんは後ろでいいの!危なくなったら、ちゃんと守るから」
冗談めかした口調だったが、嘘はなかった。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
「……でも」
湊は、まだ残る不安を吐き出す。
しばらく沈黙が落ちた。
湊は、円卓の木目を見つめながら口を開く。
「……俺、まだ何も分かってないですよね」
自嘲気味に言うと、ひよりが首を振った。
「そんなことないよ。 分からないって分かってるのは、結構大事」
澪が静かに続ける。
「字の冠は、最初から答えを持っているわけじゃない。 必要なのは、現場で読むこと」
「現場……」
その言葉に、胸がわずかに強く鳴る。
ひよりが、ぱんっと手を叩いた。
「ちょうどいいね!
今、歪みが一つ確認されててさ」
「剣の冠と影の冠が、すでに向かっているわ」
澪が補足する。
その瞬間――
湊の視界の端に、淡い文字が滲んだ。
「……え」
無意識に目を閉じる。
浮かび上がるのは、断片的な情報。
場所。
歪みの規模。
そこに集まりつつある、異質な気配。
「……たしかに、世界に一つ歪みが発生してますね。規模は大きくはないけど……複数の侵入の兆しがあります。数は、まだ……はっきりしません」
自分でも驚くほど、言葉が自然に出た。
澪の目が、わずかに細まる。
「もう、読み始めているのね」
ひよりが、ぱっと笑った。
「すご! それでこそ字の冠って感じ!私たちも歪みの発生自体は感じ取れるけど行ってみないと妖がいるかわからないんだよね〜」
湊は、ゆっくりと息を吐いた。
怖さはある。
けれど、それ以上に。
――分かろうとしてしまう。
「……俺も、行った方がいいですよね」
確認するような言い方だった。
澪は、少し考えてから頷く。
「ええ。 無理はさせない」
そして、はっきりと言う。
「力の使い方が分からなくても、私たちが支える。 君は、見て、読んで、伝えればいい」
それだけで十分だと、言外に含ませて。
湊は、小さくうなずいた。
ここから先は、
もう“知るだけ”では済まない。
だが――
一人ではない。
その事実が、確かにそこにあった。




