命の冠
歪みの中に足を踏み入れた瞬間、世界の感触が変わった。
音が、遠ざかる。
いや、正確には――音の距離感が壊れた。
自分の足音はやけに遅れて聞こえるのに、遠くで鳴ったはずの風の音は、すぐ耳元で囁くように響く。
「……っ」
思わず息を詰める。
視界が揺れ、上下の感覚が曖昧になる。
地面を踏んでいるはずなのに、身体が宙に浮いているような不安定さがあった。
「大丈夫。転ばないわ」
前を歩く篠宮澪は、振り返らずに言った。
「狭間は、最初だけ感覚が狂う。すぐに馴染むから」
「……馴染む、って」
「人はね、自分が理解できるものを“安全”だと錯覚するの」
淡々とした声だった。
まるで、ここが日常の延長であるかのように。
「狭間は、その感覚を利用する。
分かった気になった瞬間から、少しずつ引きずり込まれるのよ」
湊は周囲を見渡した。
景色は現実世界に似ている。
だが、決定的に違う。
建物の輪郭は曖昧で、色は一段階薄い。
遠くの風景は水面のように揺らぎ、視線を合わせようとすると、意味を拒むようにぼやけた。
「……落ち着く、ような気もします」
正直な感想が口をついた。
澪は、少しだけ視線をこちらへ向ける。
「それが一番、危険」
「え?」
「狭間は、人の“理解しようとする力”に強く反応する。
安心できると感じた人ほど、深く入り込んでしまう」
胸の奥が、ざわりとした。
――分かろうとする力。
妖と初めて遭遇したときに感じた、あの衝動。
恐怖の裏側で芽生えた、知りたいという欲求。
「……字の冠は」
覚悟を決めて、尋ねる。
「やっぱり、ここに引き寄せられやすいんですか」
澪は一拍だけ間を置いた。
「ええ。だから……気をつけなさい」
それ以上は説明しなかった。
やがて、霧が晴れるように視界が安定していく。
足元に確かな重力を感じた。
目の前に現れたのは、一軒の建物だった。
洋館のような佇まい。
けれど、どの時代のものとも断定できない、不思議な存在感がある。
「あそこが、五冠の拠点」
澪が言う。
「集まる時や知りたいことがあれば、ここに来ればいいわ」
門をくぐる直前、湊は気づいた。
――気配。
澪とは違う。
もっと柔らかくて、温度のある存在感。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。
「……他の冠の方もいらっしゃるのですね?」
「ええ」
澪は扉に手をかけながら、静かに言った。
「命の冠よ。理屈じゃ、理解できない相手ね」
扉が、音もなく開いた。
広いホール。
柔らかな光が差し込み、どこか人の気配が残っている。
「――あっ!」
その声は、場の空気を一瞬で変えた。
軽くて、明るくて、よく通る声。
「え〜!! 澪ちゃん、その人ってもしかして!」
奥から、小走りで近づいてくる人物がいた。
年は湊と同じくらいか、少し下。
明るい色の髪を揺らしながら、興味津々といった様子でこちらを覗き込んでくる。
距離が、近い。
「……っ」
思わず一歩引くと、その人は目を丸くした。
「あ、ごめん! 怖がらせた?」
次の瞬間、にっと笑う。
「でもさ、君……」
視線が、湊の左手の甲に落ちる。
「もしかして――字の冠?」
心臓が跳ねた。
「え、あ、はい……」
戸惑いながら答えると、その人はぱっと表情を輝かせた。
「やっぱり!!ねえ澪ちゃん、最後の人だよね?」
「……ええ」
澪が頷く。
「この人は――」
「命の冠!九条ひよりでーす!」
ひよりは、両手を広げて元気よく名乗った。
「よろしくね、湊くん!」
その笑顔は、場の緊張を不思議と和らげた。
まるでお日様のようだ。
胸の奥のざわつきが、少しだけ落ち着く。
澪が静かに言った。
「これで三人。残りの二人も、いずれ来ると思うわ。貴方の存在について連絡を入れておいたから」
そして、続けた。
「さあ、行きましょう。全員揃う前にあらかたの説明をしておきたいの」
湊は、改めてこの場を見渡した。
もう戻れない。
それは分かっている。
けれど――
不思議と、絶望だけではなかった。
この場所で、自分の“字”は何を読むことになるのか。
その答えは、まだ先にある。




