見えない疲労
成功は、続いていた。
住宅地から離れた河川敷。
夜間閉鎖中の倉庫街。
人の立ち入らない山間の旧道。
歪みは、湊が“読む”ことで引き寄せられ、五冠はそれを、確実に処理してきた。
目撃者、ゼロ。
事故、ゼロ。
SNSへの流出、ゼロ。
理想的な結果だった。
「最近、仕事早くない?」
ひよりが、軽い調子で言った。
歪みが消えた後の静かな場所で、マグボトルを手にしている。
「前より、集めるの上手くなってるよね」
「まあな!」
烈が、満足そうに笑う。
「湊の読みが安定してきたってことだろ」
静も、短く頷いた。
「無駄が減った」
澪は、少しだけ考えるような視線で湊を見たが、何も言わなかった。
「……ありがとうございます」
湊は、そう答えた。
声は、いつも通りだった。
――いつも通り。
だが。
歪みが完全に消えた瞬間。
湊は、ふっと視界が暗転するのを感じた。
「……っ」
一瞬、足元が揺れる。
ほんの一瞬。
誰にも気づかれない程度の、ズレ。
「湊?」
澪の声。
「大丈夫です!」
反射的に、即答した。
本当に大丈夫かどうかを、確かめる前に。
洋館に戻った後。
円卓の部屋は、いつも通りだった。
烈はソファに倒れ込み、ひよりはコーヒーを淹れ、静は壁際で端末を操作している。
湊は、一人だけ椅子に座り、視線を落とした。
――文字が、うるさい。
何も起きていないはずの空間に、微細な意味の残滓がちらつく。
読もうとしなくても、勝手に流れ込んでくる。
一時期は読みにくかったはずなのに…まるで僕が引き寄せているようだ。
《歪:残滓》
《干渉:微弱》
《再編:未定》
(……まだ、終わってない?)
頭が、重い。
目の奥が、じんと痛む。
それでも…読むことは、できる。
できてしまう。
「湊くん、顔色ちょっと悪くない?」
ひよりが、気づいた。
「え?」
「ほら。いつもより静」
烈が、ちらっと見る。
「疲れてんじゃねえの? 大学もあるし」
「……少し、寝不足なだけです」
嘘ではない。
だが、本当でもない。
静が、ぽつりと呟く。
「無理してる顔だ」
その一言に、湊の胸が、わずかに詰まる。
「……大丈夫です」
繰り返す。
「読めてますから」
その言葉に、澪が反応した。
「“読めている”ことと、“問題がない”ことは、同じじゃない」
静かな声。
責める響きは、ない。
ただ、確認するような視線。
「湊」
澪は、ゆっくりと言った。
「最近、歪みを“読む”時間が、前より長くなっている」
湊は、言葉を失った。
「自覚は、ある?」
少し、間が空いた。
湊は、正直に答えた。
「……あります」
ひよりが、思わず声を上げる。
「え、じゃあ――」
「でも」
湊は、続けた。
「この方法が、一番被害が出ないんです」
烈が、腕を組む。
「それは、そうだけどよ」
「俺が読むことで、歪みは集まる」
湊は、視線を上げた。
「人がいない場所に」
「みんなが戦える場所に」
言葉は、落ち着いている。
だが、その奥に、必死さが滲んでいた。
「だから……多少、無理しても」
そこで、言葉が止まった。
頭が、ずきりと痛む。
文字が、一斉に滲む。
《負荷:蓄積》
《感応:過剰》
湊は、思わず目を閉じた。
「……っ」
次の瞬間ーー肩に、温かい手が触れた。
「ストップ」
ひよりだった。
「今の、見てて分かった」
真剣な声。
「それ、“多少”じゃないよ」
烈も、黙っていたが、表情は険しい。
静が、低く言う。
「お前が壊れるのが一番だめだ」
澪は、目を伏せた。
「……想定より、早い」
その一言で、空気が変わる。
「何がですか」
湊が問う。
澪は、顔を上げた。
「読むことで歪みを引き寄せる戦法」
「それは、正しい」
だが、と続ける。
「字の冠自身が、“意味の集積点”になる」
湊の背中に、冷たいものが走った。
「……俺が、歪みの中心に?」
「可能性がある」
澪は、はっきり言った。
「今はまだ、制御できているだけ」
沈黙。
湊は、拳を握った。
守るために始めた戦法。
誰にも気づかせないための選択。
それが――
自分自身を、削っている。
なんとなく気付いてはいた。
「……でも」
顔を上げる。
「まだ、止めるわけにはいきません」
澪は、すぐには答えなかった。
代わりに、烈が言った。
「一人で背負うな。前話しただろう」
静が、続ける。
「読む役割は、お前だけだが」
「支える役割は、全員だ」
ひよりが、ぎゅっと湊の肩を掴む。
「湊くんが壊れたら、守れなくなるよ」
その言葉が、胸に刺さった。
湊は、ゆっくりと息を吐いた。
――分かっている。
成功している。
だからこそ、止め時が見えない。
だが、このままでは。
文字は、今日も静かに囁いている。
もっと読め、と。
もっと意味を与えろ、と。
湊は、目を閉じた。
この戦い方は、まだ使える。
だが――永遠ではない。
その事実だけが、確かに、重くのしかかっていた。




