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知の冠

「――来る」


 彼女が、短く告げた。次の瞬間、妖が動いた。

 影が地面を蹴り、跳ぶ。

 人の形をしていながら、その動きは獣そのものだった。


 だが――

 彼女は、一歩も退かなかった。

 足元に、淡い光が走る。

 空間に、文字が浮かび上がった。


 意味を持つ線。

 式のようで、言葉のようでもある不可思議な記号たち。

 それらが円を描くように配置され、妖の進路を塞ぐ。


「……拘束」


 静かな声。

 その瞬間、妖の身体が空中で止まった。

 見えない何かに絡め取られたように、四肢が不自然に引き延ばされ、軋む。


 妖が呻く。

 黒い影が激しく蠢き、形を崩そうとする。


「……抗う意思がある。

 やっぱり、侵入型ね」


 彼女は淡々と呟き、指先を動かした。

 浮かんでいた文字列が崩れ、組み替えられる。


 湊の目には、それが“意味を書き換えている”ように見えた。


「……解体」


 言葉と同時に、妖の輪郭がほどけた。

 引き裂かれるのではない。

 分解され、理解され、存在を否定されていく。


 音も悲鳴もなく、影は細かな粒子となって空気に溶けていった。

 同時に、裂け目が縮む。

 まるで、世界が自ら傷を塞ぐかのように…


 静寂が戻った。

 湊は、その場にへたり込んだ。

 足が、震えている。


「……終わった、んですか」


「完全ではないけどね」


 彼女はそう言って、ようやく妖がいた場所から視線を外した。

 そして、こちらを見る。


「私は――」


 一拍、間を置く。


「篠宮 澪。

 知の冠の発現者よ」


 その名を聞いた瞬間、不思議と納得がいった。

 知っているはずのない言葉なのに、胸の奥で噛み合う感覚がある。


「知の……冠」


「そう。そして君は、字の冠」


 澪の視線が、左手の痣に戻る。


「五つある冠の中で、一番遅く現れて、一番面倒な冠」


「……面倒?」


 思わず聞き返す。

 澪は、小さく息を吐いた。


「説明は後。あまりここで話す内容でもないし」


 彼女は踵を返し、何もない空間へ向き直る。


 次の瞬間、空気が歪んだ。


 さっきの裂け目とは違う。

 整えられた、安定した“入口”。


「……ついてきて」


 振り返らずに、澪は言った。


「五人の冠持ちが集まる場所がある。君が知りたい答えは、そこで話す」


 湊は、唾を飲み込んだ。


 怖い。

 だが、それ以上にーーこのまま何も知らずに戻ることの方が、耐えられなかった。


「……分かりました」


 そう答えると、澪は一瞬だけこちらを見る。

 その表情は、ほんの少しだけ柔らいでいた。


「じゃあ、行こう。――世界の狭間を通る」


 歪みの向こうが、静かに口を開く。

 湊は、後戻りできない一歩を踏み出した。

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