読まない代償
異変は、静かに――あまりにも静かに始まった。
朝のニュースは平穏だった。
事故も、事件も、特別な話題はない。
街は、いつも通りに動いている。
湊は、大学へ向かう道を歩きながら、胸の奥に残る違和感を抱えていた。
(……鈍ってる)
左手の甲にある痣は、確かにそこにある。
だが、以前のように勝手に流れ込んできた文字は、もう現れない。
――世界を“鈍らせた”影響だ。
それ自体は、想定通りだった。
必要な選択だった。
それなのに、足取りが自然と重くなる。
理由は、はっきりしている。
昨夜、見えた“あの歪み”。
小さく、未熟で、まだ世界に干渉する前のもの。
(……読めば、引き寄せる)
湊は、はっきりと理解してしまっていた。
自分が“読む”という行為そのものが、歪みに意味を与え、存在を確定させてしまうことを。
そして、歪みを引き寄せ、歪み同士が集結し大きくなり妖が出現してしまう。
澪が言っていた言葉が、脳裏をよぎる。
――読む者が現れれば、意味を持とうとする存在が増える。
(……ならば、読まなければ)
引き寄せない。
育てない。
大きくしない。
それが、世界を守る一番の方法だと、その時の湊は思った。
だから、目を逸らした。
読めたのに、読まなかった。
――世界を守るために。
午後、講義を終えてキャンパスを出た直後だった。
人だかりができている。
「大丈夫ですか!」
「救急車、もうすぐ来ます!」
アスファルトに座り込む中年の男性。
息は荒く、顔色が悪い。
湊の胸が、嫌な音を立てた。
(……まさか)
視界が、わずかに揺れる。
以前のように、はっきりとは見えない。
だが、“完全に見えなくなった”わけでもない。
掠れた文字が、男の背後に滲んでいた。
《歪:残存》
《侵:微弱》
《影響:心拍》
息が詰まる。
(……歪みが…残ってる)
読まなかった歪み。
引き寄せなかったはずの歪み。
――それでも、消えてはいなかった。
形を成さず、妖も出現せず、ただ“影響”として世界に滲み出ている。
人を襲わない。
だが、人の体に確実に触れている。
(……俺が)
喉が、ひくりと鳴る。
(俺が、読まなかったから)
救急隊が到着し、男は運ばれていく。
周囲は、すぐに日常へ戻っていった。
誰も知らない。
これが“歪み”の影響だということを。
湊は、その場から動けなかった。
夜、洋館の円卓には、全員が集まっていた。
澪の声は、落ち着いている。
「今日、軽度の心停止が二件。妖は未確認」
烈が、苛立たしげに舌打ちする。
「……歪みが人体に影響を与えるとはな、妖倒せねえタイプは面倒だ」
ひよりが、湊を見る。
「湊くん……何か、分かる?」
湊は、ゆっくりと顔を上げた。
「……原因は、俺です」
空気が、張り詰める。
「昨夜、小さな歪みを見た。でも……読まなかった」
烈が、思わず声を荒げる。
「なんでだよ!」
湊は、逃げずに答えた。
「すみません。読めば、歪みを引き寄せるって分かってしまったからです。妖が出現しなければ大丈夫だと思ってました」
ひよりが、息を呑む。
「……え」
「俺が“読む”ことで、歪みが意味を持つ。それなら……読まない方がいいと思った」
守るための判断だった。
間違っていないと思っていた。
だが、澪が静かに言った。
「それでも、歪みは残ってしまった」
責める声ではない。
事実を告げる声だった。
「形にならなくても、“未読のまま残った歪み”は、世界に影響を与える」
澪は、そこで一度言葉を切った。
ほんの一瞬、視線を伏せる。
「……ここまで、伝えていればよかったわね」
円卓の空気が、わずかに揺れた。
「伝えなかった私の責任よ」
その言葉は、淡々としていた。
だが、そこには逃げも言い訳もなかった。
湊は、はっとして澪を見る。
「……澪さん」
胸の奥に、別の痛みが広がる。
(知ってたんだ)
未読の歪みが、形を持たずに世界へ滲む可能性。
それを、澪は最初から知っていた。
それでも――
「……俺が、勝手に判断しました」
湊は、静かに言った。
「読まなければ、引き寄せないと思った。それが一番いいって……」
澪は、首を横に振った。
「自分を責める必要はない」
きっぱりとした声。
「その判断自体は、間違っていない」
烈が、眉をひそめる。
「じゃあ、なんでこうなった」
「どちらを選んでも、代償が出るからよ」
澪は、円卓に手を置いた。
「字の冠が“読む”と、歪みは引き寄せられる。でも“読まなければ”、世界に薄く残る」
「どちらも、正しい選択」
「そして――どちらも、犠牲が出る」
ひよりが、小さく息を吐いた。
「……ずるいよ、それ」
責める声ではない。
ただの、実感だった。
「どっち選んでも、誰かが傷つくなんてさ」
静が、低く言う。
「だから、字の冠は一番面倒なんだ」
湊は、その言葉に小さく笑った。
責められている感じは、なかった。
むしろ――
(……分かってもらってる)
澪が、湊をまっすぐ見る。
「あなたが背負う必要はない、とは言わない」
だが。
「これは、あなた一人の責任じゃない」
湊の喉が、ひくりと鳴る。
「私も、同じ選択を何度もしてきた」
澪は、静かに続けた。
「そしてその度に、“もっと早く言えばよかった”と思った。今回の件もね」
烈が、乱暴に頭を掻く。
「……じゃあよ」
「次からは?」
全員の視線が、澪に集まる。
澪は、少しだけ息を吸った。
「隠さない」
「読めば起きることも、読まなければ起きることも」
「全部、共有する」
湊は、ゆっくりと頷いた。
「……それなら」
拳を、そっと握る。
「俺も、逃げません」
澪は、ほんの一瞬だけ微笑んだ。
「ええ」
「だから、チームでやるのよ」
円卓の上で、装置が低く唸った。
《歪:増加》
《侵:準備》
選択は、さらに重くなる。
だが。
それを一人で背負う時代は、もう終わっていた。




