躊躇
湊は、大学の帰り道を歩きながら、無意識に左手を握っていた。
痣は、消えていない。
だが、以前のように文字が溢れてくることもない。
(……やっぱり、鈍ってる)
あの選択は、間違いじゃなかった。
そう思いたかった。
交差点の手前で、足が止まる。
理由は、はっきりしていた。
――見えている。
視界の端。
街灯の下、何もないはずの空間が、わずかに“揺れている”。
《歪:微細》
《侵:未満》
《発生:可能性》
胸が、ひくりと鳴った。
(……小さい)
今すぐ何かが起きるわけじゃない。
歪みはまだ“形になる前”だ。
以前なら、迷わなかった。
洋館に連絡して、澪に伝えて、皆で対処していた。
――でも。
湊は、視線を逸らした。
(読まなければ……)
頭の中に、はっきりとした考えが浮かぶ。
(読まなければ、引き寄せない)
(読まなければ、広がらない)
(読まなければ、何も起きないかもしれない)
足を動かせば、歪みから離れられる。
ここを通らなければ、それで終わる。
――知らないままで、いられる。
湊は、一歩、後ろに下がった。
街灯の揺らぎは、ゆっくりと視界から消えていく
まるで、何もなかったかのように。
胸に、妙な静けさが広がった。
「……」
そのまま、歩き出す。
振り返らずに。
洋館に着いたのは、それからしばらく後だった。
「お、湊」
ソファに寝転んでいた烈が、片手を上げる。
「今日、大学じゃなかったのか?」
「……ありました」
歯切れの悪い返事。
ひよりが、すぐに気づいた。
「ん? なんか元気なくない?」
「そう見える?」
「見える見える」
澪は、何も言わずに湊を見ていた。
――見抜いている。
そんな気がした。
「異変は、なかった?」
澪の問いは、淡々としていた。
一瞬、言葉に詰まる。
あれは、異変だったのか。
それとも、ただの“可能性”だったのか。
「……ありません」
湊は、そう答えた。
静が、壁際からちらりと視線を向ける。
何も言わない。
だが、視線だけが鋭かった。
澪は、それ以上追及しなかった。
「そう。ならいいわ」
会話は、そこで終わった。
その夜。
自室のベッドに横になりながら、湊は天井を見つめていた。
(あれで、よかったのか)
問いは、消えない。
読めた。
確かに、読めた。
なのに、読まなかった。
――それは、逃げじゃないのか。
胸の奥が、ちくりと痛む。
もし、あの歪みが成長していたら。
もし、誰かが巻き込まれていたら。
考えを振り払う。
(まだ、何も起きてない)
自分に言い聞かせるように、目を閉じた。
だが。
眠りに落ちる直前、視界の奥で、かすかな文字が滲んだ。
《歪:残存》
《侵:進行》
《原因:未読》
心臓が、強く跳ねる。
(……未読)
その言葉が、胸に刺さったまま、消えなかった。
読むことは、自分が持つ力だ。
だが、読まないこともまた、歪みを発生させないかもしれないという選択だと知ってしまった。
――その選択が、正しかったのかどうか。
答えは、まだ出ていない。
そしてきっと。
次は、躊躇する暇はない。
だが、自分の力によって歪みを引き寄せてしまうと知った今…どうしたらいいのかわからない。




