鈍った世界の輪郭
廊下の奥から、足音が近づいてくる。
澪は、振り返らなかった。
――来ると、分かっていた。
この洋館にいて、今の時間帯に、ここへ足を運ぶ人間は彼しかいない。
「……澪さん」
背後から、控えめな声がかかる。
澪は、しばらく窓の外を見つめたまま、答えなかった。
「起きていたのね」
ようやく、澪は口を開いた。
湊は、少し距離を保ったまま立っていた。
無意識なのだろう。
踏み込みすぎない、その立ち位置が、彼らしい。
「……眠れなくて」
湊は、視線を彷徨わせながら言った。
「なんだか……変な感じがして」
澪は、ゆっくりと振り返る。
湊の左手。
グローブ越しでも分かる、痣の位置。
――だが。
いつもなら、そこから滲み出るはずの“情報の気配”が、薄い。
「……読みにくい?」
澪が、静かに訊ねる。
湊は、少し驚いた顔をしてから、頷いた。
「はい」
正直な声だった。
「見えなくなったわけじゃない。でも……」
言葉を探し、続ける。
「輪郭が、ぼやけてる感じです。前は、触れた瞬間に意味が流れ込んできたのに、今は……一拍、遅れる」
澪は、その言葉を黙って受け止めた。
――想定通り。
そして、想定以上に早い。
「それが、“鈍らせた”状態よ」
淡々とした声。
「世界そのものが、意味を掴みにくくなっている。妖も、人も……そして、私たちも」
湊は、拳を軽く握った。
「……俺のせい、ですよね。妖が増えた原因は」
即答はしなかった。
澪は、数秒の沈黙のあとで、首を横に振る。
「“せい”じゃない。“因果”よ」
窓に映る夜景を、指先でなぞるように示す。
「読む者が現れれば、世界は“意味を持とうとする”。それは、良いことでもあり……災いでもある」
湊は、澪の横に並び、同じ夜景を見た。
「……今は、守れてるんですよね」
確認するような言い方だった。
「ええ」
澪は、はっきりと答えた。
「少なくとも、“気づかせない”という点では」
湊は、ほっと息を吐いた。
その反応に、澪の胸が、わずかに痛む。
――彼は、まだ知らない。
「でも」
湊が、続ける。
「このままじゃ、いずれ……」
澪は、そこで言葉を遮った。
「その先は、今は考えなくていい」
少しだけ、声を柔らかくして。
「今は、世界が鈍っている。その間に、私たちは次の一手を考える」
湊は、澪を見る。
その横顔は、迷いがなく、どこか孤独だった。
「……澪さん」
「なに」
「知ってること、全部一人で抱えるの……きつくないですか」
一瞬、空気が止まる。
澪は、目を伏せた。
答えは、ずっと昔から決まっている。
「きついわ」
あっさりと、認めた。
「だから、嫌われ役なの」
湊は、首を振る。
「俺は……嫌ってないです」
澪は、思わず湊を見た。
まっすぐな目。
まだ、曇りきっていない。
「……そう言えるうちは、幸せね」
小さく笑う。
「いずれ、あなたも選ばされる。私みたいに」
湊は、少しだけ考えてから言った。
「それでも……一人で決めるよりは、いいと思います」
澪は、何も言わなかった。
ただ、夜の街に視線を戻す。
――字の冠。
彼が現れたことで、世界は動き出した。
そして、止まれなくなった。
「休みなさい」
澪は、静かに言った。
「明日から、もっと“読みにくく”なる」
「……分かりました」
湊は一礼し、踵を返す。
その背中が、廊下の闇に溶けていく。
澪は、再び一人になる。
鈍った世界。
守られた日常。
だが――
知っている。
この静けさは、長く続かない。
澪は、そっと呟いた。
「次は……隠しきれない」
世界は、次の段階へ進み始めていた。




