知の冠の宿命 ー澪視点ー
静まり返った洋館の廊下を、澪は一人で歩いていた。
選択が下されてから、どれほどの時間が経ったのかは分からない。
装置の低い唸りだけが、遠くで続いている。
――また、同じだ。
胸の奥に、鈍い痛みが広がる。
澪は、窓の前で立ち止まった。
夜の街が見える。
人々は何も知らず、いつも通りの生活を続けている。
守られた日常。
その“裏側”に、何が積み重なっているのかも知らずに。
ふと、過去の記憶が滲んだ。
初めて“見えてしまった”のは、十年以上前のことだった。
大学に入ったばかりの頃。
周囲は、新しい生活に浮き立っていた。
――なのに。
澪の目には、違うものが映っていた。
人の流れ。
街の構造。
言葉にならない“因果”。
誰が、どこで、何をすれば、何が起きるのか。
考えなくても分かってしまう。
最初は、ただの「勘」だと思っていた。
だが、その“勘”は外れなかった。
事故が起きる場所。
争いが生まれる順番。
そして――歪み。
まだ誰にも気づかれていなかった、世界の綻び。
理解してしまった瞬間、胸の奥に、焼けるような痛みが走った。
左手の甲に浮かんだ、痣。
《知の冠》。
その文字を見たとき、澪は悟った。
――ああ、来てしまった。
知の冠は、戦わない。
癒さない。
読むわけでもない。
ただ、すべてを知ってしまう。
起こりうる最悪の未来。
その回避方法。
だが同時に――
選択をしたときに、“誰かが傷つく”こと。
澪は、何度も選んできた。
見逃せば、もっと多くが傷つく。
止めれば、近くの誰かが犠牲になる。
選択をしたとき、後悔は残る。
だが、これが知の冠としての役割である。
そして世界が“選択を必要とする段階”に来てしまったことも澪が一番理解している。
*
澪は、ゆっくりと目を閉じた。
今回も、同じだ。
世界を“鈍らせる”という選択。
正しい――だが、完全ではない。
知っている。
この先に、もっと大きな歪みが待っていることを。
そして、その時に必要になるのが――
「……字の冠」
小さく、名前を呟く。
湊は、まだ知らない。
自分が現れたことで、歪みが“引き寄せられている”ことを。
読む者が現れれば、意味を持とうとする存在が増える。
それは、避けられない因果だ。
澪は、静かに拳を握った。
――だからこそ。
知の冠は、最後まで“嫌われ役”を引き受ける。
選択を迫り、
真実を突きつけ、
時には仲間をも傷つける。
それでも。
「……守るためよ」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
廊下の奥から、微かな気配がする。
誰かが、近づいてくる。
澪は振り返らなかった。
知の冠は、過去を語らず、未来を選ぶ。
だが、この先――選択だけでは済まない瞬間が来る。
その時、湊は何を“読む”のか。
澪は、夜の街を見つめながら、静かに覚悟を固めた。
――次は、もう一段、深い選択になる。
五つの冠が揃った意味が、
本当の形で問われる時が、近づいていた。




