選択のとき
洋館の空気は、張り詰めていた。
円卓の中央に置かれた装置が、低く、断続的な音を立てている。
まるで、鼓動のように。
「……これ以上は、隠せない」
澪が静かに言った。
その一言で、全員が理解した。
動画。
SNS。
噂。
歪みそのものは映らなくても、「おかしな事故」「説明のつかない現象」として、すでに世界に染み出している。
前回の事件から、目撃情報や写真、動画は確実に増えていた。
「消せばいいんだろ?」
烈が腕を組む。
「動画も投稿も、全部」
澪は首を横に振った。
「追いつかない。一つ消しても、十が生まれる」
ひよりが唇を噛んだ。
「……じゃあ、どうするの」
答えは、すでに分かっている。
それでも、口にしたくなかった。
静が、低く言う。
「……世界の“感度”を落とす」
言葉を引き取るように、澪が続けた。
「一時的に、世界を“鈍らせる”わ」
烈が眉をひそめる。
「……鈍らせる?」
円卓の上に、淡い光が投影される。
都市部一帯。
歪みが頻発している地点。
そこに、波紋のような揺らぎが重なった。
「人は、異常を“感じ取れなければ”、それを異常として認識できない」
澪は淡々と説明する。
「妖も同じ。人の恐怖や違和感に引き寄せられる性質がある」
ひよりが、はっと息を呑んだ。
「つまり……」
「感知能力を下げる」
澪は、はっきりと言った。
「人も、妖も、お互いの存在を感じにくくなる」
部屋が、静まり返る。
「歪みは消えない。
でも――」
澪は、湊を見る。
「大きくなる前に、気づかれにくくなる」
湊の胸が、強く鳴った。
「それって……」
「ええ」
澪は、静かに頷く。
「字の冠と、知の冠も含めて」
無意識に、湊は左手を握りしめた。
読む力。
見える文字。
これまで頼ってきた、すべて。
「それを……捨てろってことですか」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
静が、低く補足する。
「完全に失うわけじゃない。ただ――鈍る」
「必要な時に、読めないかもしれない」
ひよりが、湊を見る。
不安と、迷いが入り混じった表情で。
「そんなの……」
烈が歯を食いしばった。
「ふざけんな。湊がいなきゃ、俺たち――」
「確かにそうよ。だけど…」
澪が烈を制した。
「選ばなきゃならない」
全員の視線が集まる。
「この世界を守るか。それとも、五冠としての“完全な力”を守るか」
湊は、息を吸った。
大学のキャンパス。
何も知らずに笑う人たち。
今日もSNSを眺めて眠る、誰か。
そして――円卓を囲む、この人たち。
「……俺が、選ぶんですよね」
澪は、ゆっくりと頷いた。
「字の冠だから」
湊は、少しだけ笑った。
「ずるいですね、それ」
「ええ」
澪も、微かに笑う。
「だから私は、この役目が嫌いなの」
沈黙。
そして。
湊は、顔を上げた。
「やりましょう」
ひよりが、息を呑む。
「湊くん……!」
「俺が読めなくなっても」
言葉を選びながら、続ける。
「世界が守れるなら、それでいい」
烈が、乱暴に頭を掻いた。
「……ちくしょう」
静が、短く言う。
「俺がもっと妖を倒していたら」
「そんなことはない。歪みや妖は増え続けていて、いずれはこうなっていたよ」
湊は、はっきり答えた。
「俺は、守る側に来たんです。自分の力を犠牲に世界を救うならその方がいい」
澪は、深く息を吐いた。
「……準備に入るわ」
装置が、静かに光を増す。
選択は、下された。
だが――
湊の胸の奥で、微かな違和感が疼いた。
消えかけた文字が、一瞬だけ滲む。
《知:未完》
澪の視線が、ほんの一瞬だけ伏せられた。
――この選択は、まだ“完全”ではない。
そのことを、知っている者の顔だった。




