境界線
それは、ほんの些細な異変だった。
昼下がりの街。
人通りの多い交差点。
信号待ちをする人々のざわめき。
――いつもと、何も変わらない。
……はずだった。
「……嫌な感じがする」
人混みの中で、湊は足を止めた。
視線の先。
ビルとビルの隙間。
日陰になった空間だけが、わずかに歪んで見える。
目を凝らさなければ、気づかない程度。
だが――
文字は、確かに浮かんでいた。
《歪:顕在化寸前》
《侵:接触可能》
《観測:第三者》
「……っ」
喉が鳴る。
観測、第三者。
つまり――
(誰かに、見られる……!)
その瞬間だった。
「きゃっ!?」
鋭い悲鳴。
交差点の向こうで、女性がよろめく。
足元にあるマンホールの縁が、わずかに“沈んだ”。
見た目には、ただの段差。
だが、その下で。
《境界:破断》
「――だめ!」
湊は、反射的に駆け出していた。
「危ない!!」
声が届くより早く、影が動いた。
――影が、影を縫う。
次の瞬間、女性の身体が横に引かれる。
強く、しかし乱暴ではない動き。
「え……?」
女性は地面に尻もちをついただけだった。
その直後ーー低く、腹の底に響くような振動が走った。
鈍い音と共に、マンホールの下が崩れ落ちる。
アスファルトが陥没し、暗い穴が口を開けた。
「な、なんだ今の……」
「地面、落ちた!?」
周囲が騒然とする。
スマホを向ける人。
駆け寄ろうとする人。
(まずい……!)
湊の視界に、さらに文字が重なる。
《侵:遮断失敗》
《露見:可能性高》
次の瞬間。
「下がってください!!」
通る声が、場を制した。
人垣の向こうから、澪が歩み出る。
「ガス管の損傷の可能性があります。危険です、近づかないで」
冷静で、説得力のある声。
人々が、半信半疑ながらも距離を取る。
「こっち、通れませんよ〜!」
九条ひよりが、いつの間にかカラーコーンを引きずってきていた。
どこから持ってきたのかは、誰にも分からない。
「工事中です!はいはい、立ち止まらない!」
烈は、制服姿の警備員に混じるように立っていた。
肩幅の広さと圧で、人の流れを誘導する。
「危ねえから、あっち行け!」
静は、すでに影に溶けていた。
人の視線の死角。
崩れた穴の奥。
そこに――
“出かけていた何か”を、完全に縫い止めている。
《侵:封殺》
《露見:回避》
文字が、次々と書き換わる。
湊は、荒く息をついた。
心臓が、まだ早鐘を打っている。
――一歩、遅れていたら。
――誰かが、確実に“見て”いた。
澪が、湊の方を見る。
その目は、鋭い。
「……よく気づいたわ。念のために館の方に居て正解だった」
ひよりが、女性に声をかけている。
「大丈夫?びっくりしたよね〜」
女性は、まだ混乱した様子で頷くだけだ。
烈が、低く言う。
「もう、“隠れる段階”じゃねえな」
静が、影から戻る。
「……境界が、薄すぎる」
その言葉に、全員が黙る。
湊は、左手の痣を見つめた。
じん、と微かに熱を持っている。
――読めてしまう。
――気づいてしまう。
なのに、自分一人では何もできない…
知れば知るほど、“間に合わない”瞬間が増えていく。
澪が、静かに告げた。
「これが、“事故寸前”」
そして、湊を見る。
「字の冠。あなたが力を発現すると一番面倒だと言われる理由が、分かってきた?」
湊は、ゆっくりと頷いた。
――知らなければ、守れない。
――知れば、背負わずにはいられない。
街は、再び日常を取り戻していく。
誰も知らないまま。
だが――
世界の裏側で境界線は、確実に削れていた。




