前兆
それは、静かに始まっていた。
冠としての初戦闘から、数日。
世界は、相変わらず“平和”を装っていた。
夜の街はいつも通りだ。
仕事帰りの人々。
コンビニの灯り。
遠くを走る車の音。
誰一人として、立ち止まらない。
――その裏側で、世界がわずかに軋み始めていることを。
「……来るわ」
洋館の一室で、澪が静かに言った。
円卓の中央に置かれた装置が、低く唸るような音を立てている。
歪みを直接捉えるための、観測装置。
最近感じ取った違和感が、ついに“形”を持ち始めていた。
「場所は?」
烈が、椅子から立ち上がりながら訊く。
「住宅地の外れ。再開発中の区画」
「人は?」
「今の時間帯なら、ほぼいない」
即答だった。
「……なら、間に合うな」
湊は、無意識に視線を落とす。
左手の甲が、じんわりと熱を帯びていた。
視界の奥で、文字が滲み始める。
《歪:拡大型》
《侵:複数》
《境界:不安定》
喉が、ひくりと鳴った。
「……今までより、大きいです」
最近“溜まっている”と感じたものが、確実に一つに集まり始めている。
「完全には出てきてない。でも……」
文字が、さらに重なっていく。
《誘因:集中》
《収束:進行中》
「……集まってきてる」
ひよりが、ぱちっと指を鳴らした。
「なるほどね。小さい歪みを餌にして、まとめて来るタイプか」
「街中で派手にやる気か?」
烈が、不敵に笑う。
「だったら――」
刃を肩に担ぐ。
「派手になる前に、ぶっ潰すだけだ!」
「烈」
澪が制す。
「今回は連携重視よ。 力押しは最後」
「分かってる分かってる!」
そう言いながらも、烈の目は燃えていた。
静は、すでに壁際に立っている。
「外周、見る」
「お願い」
澪が頷いた。
次の瞬間。
空間が、折り畳まれるように歪んだ。
再開発途中の区画は、夜の静けさに包まれていた。
クレーン。
仮設フェンス。
人気のない建物の影。
――だが。
その中心だけ、空気が違う。
湊の視界に、はっきりと文字が浮かぶ。
《歪:展開中》
《侵:三》
《形態:未確定》
「……三体。まだ“形になる前”です」
「間に合うわね」
澪が即座に判断する。
「烈、前線」
「おう!」
「ひより、後方と支援」
「了解っ!」
「静、影から封鎖」
「分断する」
湊は、深く息を吸った。
自分の役割は――
「……歪みの中心、ここです」
指差した先。
何もないはずの空間。
だが、そこだけ。
“意味”が、歪んでいる。
「烈さん、そこに突っ込むと巻き込まれる」
「じゃあ?」
「……少し、左」
《安定点:仮》
「ここなら、切れる」
烈は一瞬だけ湊を見て、にやりと笑った。
「了解だ、湊!」
次の瞬間。
剣が、振り抜かれた。
――轟音。
空気が裂け、まだ形を持ちきれない妖が悲鳴を上げる。
だが、完全には消えない。
「ちっ、硬ぇ!」
「今!」
湊が叫ぶ。
《核:露出》
ひよりが、即座に動いた。
「はいはい、じゃあ治して壊してあげる!」
淡い光が走り、烈の動きがさらに加速する。
背後で、空気が沈む。
――静だ。
影から影へ。
逃げ道そのものを、切り落とす。
「逃げ道、潰した」
《侵:減衰》
《歪:収縮》
「……いける!」
「――一気に、畳む」
澪の声。
五人の動きが、重なった。
前で斬り、
裏を塞ぎ、
命を繋ぎ、
全体を見て、
意味を渡す。
やがて。
歪みは、音もなく閉じた。
街は、何事もなかったかのように夜を続けている。
誰も知らない。
数分前、ここで世界が揺らいでいたことを。
烈が、肩を回しながら笑った。
「いやー、今回は気持ちよかったな!」
「ほどほどにして」
ひよりが呆れつつも笑う。
静が、湊を見る。
「……いい判断だった」
短い言葉。
だが、確かな評価。
湊は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じていた。
派手じゃない。
誰にも称賛されない。
それでも。
――確かに、守れた。
澪が、夜の街を見つめて言う。
「これでも、まだ序盤よ」
湊は、頷いた。
人々が何も知らずに眠るこの世界を、裏側から支える覚悟を。
字の冠として。
五冠の一員として。
嵐は、確実に近づいている。




