字の冠
ーー自分は昔から、人の様子を気にしすぎるところがある。
大学の講義が終わったあとの教室。
ざわつく空気の中で、誰かの声が一瞬だけ沈んだとか、笑顔が少し硬かったとか、そういう細かな変化が妙に目についてしまう。
「お〜い、湊。帰らないのか?」
隣の席から声をかけられて、少し遅れて顔を上げた。
「あ、うん。ごめん、ちょっと考えごとしてた」
「またそれか。ほんと、よく考え込むよな」
笑いながら言われた言葉に、曖昧に笑い返す。
悪気がないのは分かっているし、気にするほどのことじゃない。
――気にしすぎだ。
すぐに悪い方に考えて、友達ですら自分を嫌っているんじゃないかと疑ってしまう。
「それじゃ、俺はこのあと講義あるから。気をつけて帰れよ、湊。またな!」
「あ、うん。またね」
友達の眩しい笑顔を見てホッと安堵した。ほらね、嫌われていない。
疑ってしまった自分に自己嫌悪し、モヤモヤしながらひとりキャンパスを後にした。
夕暮れの空は、やけに不安定な色をしていた。
オレンジと紫が混ざり合い、境目が溶けるように曖昧になっていく。
そのとき、不意に胸の奥がざわついた。
「……?」
理由は分からない。
ただ、胸の深いところに、“何かが触れた”ような感覚があった。
あたりを見回す。
いつものように人の声も、街の音も確かに聞こえている。
なのに、世界のどこかに小さな綻びが生まれたような、不自然な静けさが紛れ込んでいた。
ざわり、と背中を冷たいものが撫でる。
(……嫌な感じがする)
足が、勝手に動いていた。
どこへ向かうでもなく、ただ胸のざわめきが「そっちだ」と告げる方向へ。
人気の少ない通りへと誘われるように歩いていく。
「……待って」
誰に向けた言葉かも分からない。
本能が、立ち止まれと警告した。
そのときだった…
角を曲がった瞬間――視界が、歪んだ。
空間そのものに、亀裂が走っていた。
ガラスを殴り割ったような鋭い裂け目が、宙に浮いている。
世界が破れる音が聞こえた気がした。
その奥から、黒い影が滲み出してくる。
「……なに、あれ……」
影は地面に落ち、ぬるりと蠢く。
形を持たない肉塊のようだったものが、ゆっくりと人の輪郭を模していく。
獣でも人でもない。
“何か”が無理やり形を与えられたような、不自然な存在。
空気が揺れ、息が喉に張りつく。
(……来る)
本能が絶叫した。
――逃げろ。
なのに身体は言うことを聞かない。
足が地面に縫い付けられたみたいに動かない。
心臓の音だけがやけに大きく響いた。
どくん、どくん、と鼓膜を内側から叩いている。
その存在が、一歩、こちらへ踏み出した。
地面がわずかに沈む。そのたった一歩だけで、世界の温度が一段下がったように感じた。
怖い。
本当に、怖い。
逃げなかったその先にあるのはきっと“死”だ。理屈じゃなく、身体が理解してしまう。
――なのに。
視線が、離れなかった。
影の輪郭は波のように揺れ、内側では何かがうごめいている。
見てはいけないと分かるのに、目が離れない。
恐怖のすぐ裏側で、別の感情がゆっくりと膨らんでいた。
(……知りたい)
ー正体を。
ー意味を。
ーこの異常のすべてを!
形はあるのに、輪郭が定まらない。
確かにそこに存在しているのに、現実感が薄い。
……分からない。
自分の頭の辞書を調べても、この異常の存在に当てはまるものはなかった。
どうして、分からないままでいられないんだろう。恐怖の奥で、別の感情が、確かに芽生えていた。
――正体を、知りたい。
意味のない考えだ。今は逃げるべき状況なのに。
それでも、目を逸らすことができなかった。
その存在から視線を逸らせず見つめていたときーー。視界の端で、白い光が弾けた。
「……え?」
左手が、淡く光っている。
恐る恐る視線を落とすと、手の甲に見覚えのない痣が浮かび上がっていた。
線で描かれたような文字が、円を描くように並んでいる。
――読める。
意味が、頭の奥に流れ込んできた。
《字の冠》
知らない言葉なのに、不思議と確信があった。
同時に、妖の姿が変わって見える。その輪郭の奥に、いくつもの文字が浮かび上がっていた。
――歪。
――侵。
――欠。
「……なるほど」
喉が乾いて、声がかすれる。
それでも、不思議と恐怖は薄れていた。これは、分からないものじゃない。
少なくとも、“意味を持たない存在”ではない。
「君は……歪みから来たんだな」
妖が、低く唸る。
その瞬間、背後から鋭い声が飛んだ。
「――下がれ!」
振り返ると、見知らぬ人物が立っていた。
その人は一瞬こちらを見て、目を見開いた。
「……まさか」
視線が、湊の左手の甲に落ちる。
「字の冠……。最後の発現者が、もう現れたのか」
心臓が、大きく跳ねた。
自分はただの大学生で、人の顔色を気にしすぎる、普通の人間だったはずなのに。
「……それ、どういう意味ですか」
震える声で問いかける。答えは、すぐには返ってこなかった。
代わりに、空間の裂け目が、さらに大きく揺らいだ。
――世界の狭間が、完全に開こうとしている。
その予感だけが、はっきりと胸に残っていた。




