地球より、貴方に星を
__……「ああ……目が、覚めたのですね」
消毒液の匂いが鼻を擽る。
朧気ながら、幸せな夢を見ていた気がする。
暫くの間、真っ白な天井を眺めていた。
漸く動き始めた脳を回転させ、男の方を打ち見する。
「……ここは…」
掠れた弱々しい声で目の前の男に聞いた。
男はカーテンを開ける手を止め、俺の方を見た。
目尻を下げ、白衣を揺らす。
「病院ですよ。直前までの記憶はありますか?」
「病院…記憶……」
断片的な記憶が蘇る。
「…彼女は」
そうだ、あの子が居ない。あの子ならば、お見舞いの一つや二つあってもいいのに。
体を起こそうとすると激痛が走り、蹲る。
男は、慌てたように駆け寄ってきた。
「無理して動かないでください」
「彼女、彼女は…どこですか」
俺の背中をさする男の肩を掴む。
前よりも体力が衰えた気がする。体の節々が痛み、上手く力が入らない。
いや、それは今は問題ない。無視してもいい。
あの子が居ないことの方が重大なのだ。
だって、漸くあの子に指輪を渡すことができたんだ。
「落ち着いてください」
父親のような、どことない安心感のある男の声が頭上から落ち、頭が冷えていく。
呼吸が安定し始める。心臓に溜まっていた酸素が、脳へと運ばれ始める。
息を着いた。
この時初めて、呼吸することに成功した。
「……すみません」
俺は男から手を離し、正常に回り始める脳を動かす。
されど、気になることはあの子のことばかりで。
「あの…」
そう声を掛けようとして、やめた。
俺があの子に会いに行こう。
今度こそ、手を離さないように、しっかりと繋ぎ止めなければいけない。
リハビリを始めてから150日が経過しようとしていた。
あまりにも、違和感がなくて受け入れていたのだが、どうやら俺の片目は失明してしまったと聞いた。
あの事故で、失明だけで済んだのは俺だけだったらしい。
俺の体は、どうやら思ったよりも頑丈のようだ。
「この調子なら、来月辺りに退院できそうですね」
男は朗らかに笑いながら俺に告げた。
看護師さんも、ほっとしたような顔を浮かべていた。
「そうですか…ありがとうございます」
あの子が見舞いに来ない。退院云々よりも、そっちの方が気がかりだった。
知り合いはよく見舞いに来るのに、あの子だけが何処にもいない。
あの子だけが、世界から切り取られたみたいだった。
退院当日。
俺は今までお世話になった看護師さんなどに見送られながら、親の運転する車に乗り込んだ。
その手に、鮮やかな花束を持って。
俺の手の中では、摘まれたオレンジ色のバラが、幾重にも重なる花弁を広げ、瑞々しく咲き誇っていた。
個人的な見解では、間に添えられた白い小花と、くすんだ赤色の花の方が好きだ。
きっと、あの子を引き立ててくれるだろう。
「あれ」
俺は驚いて、何度も瞬きをした。
フロアカーペットの上に、見慣れない赤色が落ちていた。
なんの疑いもなしに、赤を拾い上げてみた。
「いて」
チクリ、と指先に棘でも刺さったような痛みが走る。
僅かに眉間に皺を寄せながら、視界にそれを捉える。
それで、息が詰まった。
見事な一輪挿しの赤い薔薇だった。
中世の貴族が好むような、人を魅了する見事な一輪。
何の根拠もないのに、この薔薇はあの子が俺に贈った物だと直感的に理解した。
何故か、失明した左目が異様に傷んだ。
(まるで、別れを惜しんでるみたいだな…)
変な気分になりながら、俺は痛む眼球を撫でた。
退院してから数ヶ月が経った。
俺はいつも通り大学で講義を受け、家路に着く。
時々、友人に囲まれながら、朝まで騒ぐこともあった。
何の変哲もない、見慣れた日常。
その日常は、俺にとってはあまりにも異質で異様だった。
あの子だけが、そこに居なかった。
初めから存在してないように。
「なぁ、アイツは?」
ある日、俺は目の前でカツ丼を頬張る友人に質問してみた。
モゴモゴを口を動かし、水で流しながらも、友人は一度たりとも俺から視線を外さなかった。
「……アイツって?」
友人は固形物を飲み込んだと同時に、言葉を滑らせた。
「そりゃ、決まっているだろ」
友人は熱々のカツを食べながら、言いにくそうに唸った。
「最近大学にも顔を見せないし……」
友人の反応は気がかりだったが、それ以上にあの子が心配だ。
更に気まずそうに唸る友人を横目に、俺は水で乾いた喉を潤した。
「…なぁ、お前はどこまで覚えているんだ?」
不意に、友人が俺に問うた。
思ってもみなかった問いかけに少々面食う。
言い出しは、「朧気だけど」だったと思う。
「事故があったな〜ってことぐらい? う〜ん……医師は何も言ってなかったけどな」
「そうか…」
友人は、やっぱり言いにくそうに目を伏せた。
「なんだよ」
「いや…なぁ……う〜ん…」
いや、でも、しかし、う〜ん……
ブツブツと何か呟きながら、友人は腕を組み、唸り声をあげる。
「……この後、時間ある?」
俺は、反射的にその問いを否定した。
「だろうな」
目の前の友人は、食い切りな否定を気にしていないのか、ヘラヘラ笑う。
友人ばかりが、どことなく気まずそうに肩を竦め、ぼやく。
「本能でわかってんだろうな〜……」
友人は複雑そうな表情を浮かべて、それから苦笑した。
ここ数日、気分が晴れない。
俺の知らない俺が、痛みでのたうち回っているような気がして、何も手につかなかった。
物理的な痛みではなく、もっと精神的な…このまま、生きていくことができないと、駄々を捏ねる子供のように。
何もやる気が起きなくて、一日中ベッドの上でぼんやりすることもあった。
それでも、ちゃんと朝を起きて、歯を磨いて、ネクタイを締める。
何かが足りないような気がして寝れない時は、枕を腕に抱いて寝た。
食欲が一切わかない時ですら、俺は義務のように飯を胃に押し込んだ。
生かされているような気がして、気持ちが悪かった。
しかし、その生活を辞める気にもなれず、ズルズルと引き摺ったまま、生きていた。
「はぁ……」
その日だけは、奇妙な程に寝付くことができなかった。
適当なカーディガンを羽織り、ベランダに出る。
薄ら寒い風が頬を撫でる。
「おぉ…寒……」
くしゃみをひとつ。ずびっと鼻水を啜った。
腕を組み、指先を脇に挟む。
体を丸めてベランダから空を見上げた。
__無数の星々が燦然と輝いていた。
茫然と婉然と輝く星々を遠望する。
ふと、どの星よりもまばゆく光る主張の激しい星を見つけた。
眩く輝く星々の中に隠れていて、容易に気付くことができなかった。
その星は、始めてみるはずなのに見覚えがあった。
無くし物が見つかった時のような安堵感が身を包む。
異様な安心感に、何も知らない俺は背筋が寒くなる。
「なんなんだ……」
鬱陶しい、と思った。
知らない人に振り回されることも、チリチリと胸の内で焼ける痛みも、全て。
煩わしい。痛くて痛くて、溺れてしまいそうだった。
「いてぇな……」
胸が寂しさではち切れそうだ。
なぁ。お前は今、一体どこに居るんだ。
誰も教えてくれないんだ。
空っぽになったリングケースだけが、星明かりを素直に受け止めていた。




