鮫
「うそでしょ……めっちゃキレイ……!」
理沙はサンゴ色のビキニを揺らしながら、真っ白な砂浜を駆けた。南の島、レンベルト諸島。日本からはかなり遠いが、SNSで見た景色に一目惚れして、貯金を崩してまで来たのだ。
太陽は高く、空には雲ひとつない。海は冗談みたいに透き通っていて、沖の方では観光客がシュノーケルを楽しんでいた。
「映えるー!」
理沙はビーチサンダルを脱ぎ、水に足を入れる。ぬるい。まるで風呂のように暖かい。波打ち際には小魚の群れがきらめき、ヤドカリが砂を這っている。
そして、誰も気づかない。
白波の向こう、水面の奥に、黒く巨大な影が潜んでいたことを。
***
「さっきの海、マジ最高だったんだけど!」
宿のバーで、理沙は外国人の青年と話していた。彼はルークと名乗り、フリーのダイバーをしているという。日に焼けた笑顔が印象的で、理沙はすぐに打ち解けた。
「このへん、サメとかいないんですか?」
「グレートホワイトは滅多に来ないよ。でも、ブルとかタイガーは……いるかもね」
ルークは冗談っぽく笑ったが、理沙は少し顔をこわばらせた。
「マジで? 泳いでて大丈夫かな……」
「シャークアタックなんて、何万回に一回さ。俺の友達も一度だけ見たことあるけど、もう十年も前だよ」
その言葉に、理沙はホッとしたように笑った。バーには陽気な音楽が流れ、周囲の旅行客も酔いにほぐれていた。
だがルークの瞳の奥には、言葉にしない沈黙があった。
***
翌朝。
理沙は早朝のビーチに立っていた。ほとんど誰もいない。潮の香りが濃く、遠くで波が音を立てていた。
「今なら独り占めだ……」
昨日のルークとの会話も、もう忘れていた。理沙はゆっくりと沖へ進む。肩まで海に浸かったとき、背後に誰かの気配がした。
「……ルーク?」
振り返ると、誰もいない。空は灰色がかってきており、太陽はまだ顔を出していない。
「なんか……変な感じ」
その瞬間——
ザブンッ!
何かが水中から突き上がった。理沙は背中から突き飛ばされ、水を飲み込んだ。
「うわっ、なに!? 魚!? 岩!?」
慌てて顔を上げたが、そこに浮かんでいたのは——人の足だった。
女性の足が、ひとつだけ、水面にぷかりと浮いていた。
「……え?」
悲鳴を上げる間もなく、理沙の足首に強烈な痛みが走る。
「ぎゃあああああッ!!」
引きずられる。海中へ、力任せに。
理沙は必死に水をかき、手を伸ばした。岸が遠ざかっていく。
その時、すぐそばを、鋭く三角形の背びれがかすめた。
「シャ……シャーク……!」
声にならない。肺が、破裂しそうだ。下半身に感覚がない。見れば、左脚がなくなっていた。流れていく自分の血が、海を赤く染めている。
もうダメだ、と思ったその時——
誰かが、手を引いた。
***
気がつくと、理沙はベッドの上だった。白い天井。点滴。エアコンの音。
「生きて……る?」
足元を見る。
左脚は、太ももで切断されていた。
「うそ……なんで……」
涙がにじんだ。だが、それよりも先に、隣に座る人影に気づく。
「ルーク……」
彼は、理沙の手を取った。
「君は運がよかった。あと一秒遅れてたら、もう引き裂かれてた」
「サメ……だったの?」
「ああ。タイガーシャーク……3メートルはあった。たぶん、最近人間の味を覚えたんだろう」
理沙は息を呑んだ。
「それって……また?」
「……そうだ。味を覚えた奴は、もう魚を狙わない。次も人を襲う。」
***
一週間後、理沙は義足の手続きを終えて、ようやく帰国の準備をしていた。
ビーチにはもう近づいていない。だが、ニュースは毎日目に入った。
《レンベルト諸島で再び行方不明者》
《サーファーの遺体、腰から下が消失》
《鮫の可能性、専門家が指摘》
ルークからは毎日メッセージが届いた。励ましと、謝罪。そして、**「気をつけろ」**という一言が毎回添えられていた。
日本に帰国した夜、理沙はテレビをつけた。
ニュースでは、また新しいビーチでの失踪が報じられていた。
だが理沙は、ニュースキャスターの後ろに映る映像に目を奪われた。
——波打ち際に、奇妙な軌跡があった。
人の手のような跡。這って上がったような線。
その先に、何かがいた。
水中から、ぬっと灰色の、ザラついた鼻先が浮かび、目だけが静かにこちらを見ていた。
理沙は息を呑んだ。
それは、確かに彼女を襲ったあのサメと、同じ目だった。
『まだ……終わってない』
海は、何も語らない。
ただ静かに、次の獲物を待っている。