第90話:イカのポッポ焼き
トタン屋根に雨がぽつぽつと落ちる音が、静かな夜に溶け込んでいた。
暖簾の奥で、看板も出していない小さな食堂――
「深夜食堂しのぶ」の灯りだけが、ひっそりと夜を照らしている。
「いらっしゃい」
暖簾をくぐると、いつものように無口な板前・マサさんがカウンター越しに会釈をした。
おかみさんの忍さんは、笑顔でお茶を差し出す。
「お疲れさま。今日は雨で冷えたでしょう?」
戸口から入ってきたのは、小柄な年配の男性だった。
黒縁眼鏡にベレー帽。カメラバッグを肩から提げている。
「ふぅ……今日は海辺でずっと撮っててね。なんだか、あの匂いが恋しくなっちゃってさ」
「匂い?」
「うん――ポッポ焼きって知ってる? イカを串に刺して焼いたやつ。昔、港町の屋台でよく食べたんだ」
マサさんは、無言で頷き、冷蔵庫から立派なスルメイカを取り出す。
「お、それ、作ってくれるのかい?」
忍さんが笑う。「マサさん、意外とこう見えて…屋台の出身なのよ」
イカの腹を手早く開き、ワタと軟骨を丁寧に取り出す。
軽く塩をしてから、甘辛の醤油ダレを塗り、串に刺して七輪の上でじっくり焼いていく。
ジュウウ…と煙が上がり、香ばしい香りが店内に広がっていく。
「うわぁ……この匂いだよ、まさに」
ほんのり焦げたタレの匂いと、イカの旨味。
タレをもう一度ぬって、焼き上げたところでマサさんが手際よく切り分ける。
「どうぞ。熱いから気をつけてね」と忍さん。
男は箸をとり、ひときれを口に運ぶ――
「……ああ、うまい。タレの甘みと、イカの歯ごたえ……これこれ」
しばらく黙って噛み締めていた男が、ポツリと呟いた。
「……若い頃、失恋してな。夜の港でヤケ酒してたら、屋台のオヤジがこれ、ただで焼いてくれたんだよ」
「へえ……素敵なお話」
「ま、話したってしょうがない。写真が残るからね。思い出も」
カメラバッグを撫でながら、男は焼きイカをまた一切れ、ゆっくり口に運んだ。
忍さんが、お茶を注ぎながら言う。
「味も思い出も、心に残りますから」
男は少し笑って、頷いた。
その夜、雨音のなかで――
カウンターに広がる香ばしさと、懐かしさと、静かな時間だけが、ゆっくりと流れていた。
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今夜の一品:イカのポッポ焼き(屋台風)
【材料】
スルメイカ…1杯
醤油…大さじ2
みりん…大さじ1
砂糖…小さじ1
酒…大さじ1
生姜…少々
【作り方】
1. イカの内臓・軟骨を取り除き、食べやすい大きさに開く。
2. 調味料を混ぜて、タレを作る。
3. イカに串を刺し、タレを塗ってから網またはグリルで焼く(途中で何度かタレを塗ると美味)。
4. 表面がこんがりしたら出来上がり。熱々で召し上がれ!
【ひとことアドバイス】
・おつまみにもご飯のおかずにも最適。
・イカは焦がさないように弱火でじっくり焼くと香ばしくなります。
・七輪がなければ魚焼きグリルでOK。




