第89話 ほっけの刺身とフライ
「ほっけって、焼くだけじゃないんですね……」
今夜の客は、どこか陰のあるスーツ姿の若い女性だった。名刺入れを丁寧にテーブルに置きながら、彼女はぽつりと呟いた。
「ええ、今日は運よく“生”が手に入りまして」
おかみさん――忍が微笑む。
厨房の奥では、無口な板前・マサさんが、黙々と包丁を走らせる。淡いピンクの身が、しんとした夜に映えていた。
「ほっけの刺身って、初めてです」
「新鮮なものじゃないと食べられませんからね。あともうひとつ、フライもお出ししましょうか。揚げたて、じゅわっと美味しいですよ」
彼女は小さく頷いた。
やがて、カウンターに二皿の料理が並ぶ。
ひとつは、薄く引かれたほっけの刺身。薬味には大葉と細切りのネギ、ほんのりと生姜。
もうひとつは、きつね色に揚がったほっけフライ。レモンとタルタルソースが添えられていた。
彼女は、箸を手に取る。
まずは刺身を一切れ――口に運ぶと、驚きが顔に浮かんだ。
「……甘い……こんな味なんですね」
脂が乗っているのに、しつこくない。舌の上でとろけるような優しい旨味。
続いてフライをひとくち。衣はさくさく、中はふっくら。
「これも、びっくりです。ほっけって、こんなに違う顔を持ってるなんて」
忍は笑った。
「お魚も、人も、固定観念で決めつけちゃもったいないわね」
女性は、箸を止めたまま、しばらく黙っていた。
「……兄が亡くなった日、家にあったのが“焼きほっけ”だったんです」
ぽつりとこぼれた言葉。
「嫌いになってたんです。あの日の味を、ずっと避けてた。でも、今夜――なんか、少し許せた気がして」
静かな時間が流れる。
マサさんが、すっと温かいほうじ茶を差し出した。
彼女はそっと一礼し、それを両手で包み込むようにして飲む。
「……ごちそうさまでした」
深夜の店を出る頃、彼女の背筋は少しだけ、まっすぐになっていた。
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今夜のレシピ:ほっけの刺身とフライ
【ほっけの刺身】
新鮮な生ほっけ(刺身用)
大葉・ネギ・生姜
醤油
※生食できる新鮮なもの限定。皮を引き、薄くそぎ切りにして薬味と一緒にどうぞ。
【ほっけのフライ】
ほっけの切り身(骨を抜いて)
小麦粉・溶き卵・パン粉
揚げ油
レモン・タルタルソース
※塩を軽く振ってから衣をつけ、180℃の油できつね色になるまで揚げる。
ひとことアドバイス: ほっけは意外に脂がのっており、フライにすると旨味が引き立ちます。刺身は新鮮な産地直送などで手に入ったときの特別メニューに。冷凍ではなく「生」にこだわりましょう。




