第87話『お刺身よりも、漬けがうまい』
深夜0時を少し回ったころ、店の暖簾が静かに揺れた。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうで、女将の忍さんが微笑んだ。
その横では、無口な板前のマサさんが包丁を研いでいる。
ここは《深夜食堂しのぶ》。深夜だけ開く、不思議な店。
メニューは少ない。が、客は決まって“ないメニュー”を頼む。
「えっと……漬け、できますか?」
スーツ姿の青年が申し訳なさそうに言った。
「お刺身じゃなくて?」
「ええ……あの、刺身はちょっと緊張してしまって。なんだか、こう……“整いすぎてて”」
「ふふ、わかるわよ。マサさん、お願いできる?」
黙って頷いたマサさんは、鮮度のいいマグロを静かに切り出し始めた。
カウンターに座る青年は、ふぅと息を吐いてネクタイを緩めた。
「今日は……昇進の打診があって」
「おめでとうございます」
「……でも、怖いんですよね。自分が上に立っていいのかって」
マサさんは黙々と作業を続けている。
丁寧に切り出した赤身のマグロを、特製の醤油ダレに潜らせる。
「整った刺身より、少し染み込んだ味のほうが落ち着く」
青年の言葉に、忍さんが笑った。
「そうね。人間もそうかもしれないわ。少し、味が染みたくらいがちょうどいい」
漬けマグロ丼が出された。
炊き立てごはんの上に、ツヤのある漬けが丁寧に並べられている。
わさびを添えて、刻み海苔と白ごまが香る。
一口食べた青年が、目を丸くした。
「うま……あれ? なんか、ほっとする味だ」
「ふふ、“自分に染み込んだ味”って、案外自分じゃわからないのよ」
箸が止まらない。
口の中に広がる旨味と優しい醤油の香りが、張り詰めた心をほどいていく。
食べ終わった青年は、そっと言った。
「……少しだけ、自信がついた気がします」
「またおいで。今度は、もうちょっと“しみた”味でもいいかもね」
青年が帰ったあと、マサさんがぽつりと呟いた。
「……漬けるには、時間が要る」
「それが“美味くなる”秘訣でもあるわね」
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今夜のレシピ:マサさん流・漬けマグロ丼
材料(1人分):
マグロ(赤身)刺身用 100g
醤油 大さじ2
みりん 大さじ1
酒 大さじ1
ごはん 丼1杯分
わさび、刻み海苔、白ごま 適量
作り方:
1. 小鍋にみりんと酒を入れ、軽く煮切る(アルコールを飛ばす)。
2. 火を止めて醤油を加え、冷ます。
3. 刺身用のマグロを食べやすく切り、タレに15〜30分ほど漬け込む。
4. 温かいごはんにマグロをのせ、刻み海苔・白ごま・わさびを添えて完成。
ひとくちアドバイス:
漬け時間はお好みで調整。長く漬けるほど味が濃くなります。卵黄を落として「漬け卵黄丼」にしても絶品です。




