第71話 水ナス漬物(夏の思い出)
その夜は雨だった。霧雨が街を濡らし、ビルの光をぼやかしている。
のれんをくぐって、静かに店に入ってきたのは、40代後半の女性だった。小ぶりの傘を畳み、入り口で足をぬぐうようにして店内を見回す。
「いらっしゃい。……お久しぶりね」
カウンターの奥で、忍さんが笑った。
「マサさん、あの方は?」
「……うん、覚えてるよ。確か“夏だけ来る人”」
彼女の名前は沙織さん。
かつて深夜食堂・しのぶの近くで小さな和雑貨店を営んでいたが、数年前に地方へ引っ越した。その彼女が、ふらりと戻ってきたのだ。
「水ナス、まだあるかしら?」
「ありますよ。今朝、いいのが入ったんです」
静かに包丁がまな板に触れる音。マサさんが、丁寧に水ナスを裂いていく。
その横で、忍さんが小皿を用意しながら、ぽつりと聞いた。
「戻ってきたの?」
「……ううん、違うの。ただね、この時期になると、ここの水ナスが食べたくなるのよ」
それは、彼女の夫が元気だったころ、2人でよく来ていた季節の味だった。
出された小皿には、つややかな水ナスの浅漬けが、氷のように冷やされて盛られている。艶と香り。少しの生姜が添えられていた。
ひと口。
しゃくっ、と涼しい音がして、沙織さんの表情がゆるんだ。
「やっぱり、これ。夏はこれでなきゃ……」
ぽたり、と涙のようにこぼれたのは、冷たい水ではなく、温かな想い出だった。
それに気づいたマサさんは、何も言わず、次の一品を仕込み始めた。
しばらくの静寂。優しい箸の音と、氷の音。
雨音のなか、心がすうっと落ち着いていく夜だった。
---
本日のレシピ:水ナスの浅漬け(しのぶ風)
材料(2人分)
・水ナス(中)……2本
・塩……小さじ1/2
・しょうが……適量
・氷水……適量
作り方
1. 水ナスは洗ってヘタを落とし、縦に4〜6つ割りにする。
2. 手で裂くと、断面に味が染みやすくなる。
3. 軽く塩を振って、10分ほど置く。
4. 軽く絞り、氷水に2〜3分浸して冷やす。
5. 器に盛り、千切りのしょうがを添える。
ワンポイントアドバイス
・裂くときは、包丁で少し切り込みを入れてから手で裂くときれいです。
・前日に仕込んでも美味しいですが、サッと浅漬けにしてすぐ食べるのも、夏にぴったりの楽しみ方です。




