第64話:鯖の一夜干し
風が少し冷たく感じる夜だった。
店の暖簾をくぐると、ほわりと米の炊ける匂いが鼻をくすぐる。
「いらっしゃい。今日は寒いね」
カウンターの向こうから、おかみさんの忍が優しく微笑む。
奥では、マサさんが炭台の網に、干物を並べていた。
パチ、パチ、と脂がはぜる音が、静かな店内に広がる。
「お、鯖か。いい香りだなあ」
「うん。今日の鯖は特別よ。三日前に〆て、うちで干したの。身が締まってて、美味しいよ」
その言葉に誘われるように、一人の男が腰を下ろす。
常連の佐伯さん。寡黙なサラリーマンで、週に一度は必ずこの店に寄る。
「……それ、ください」
「はいよ。鯖の一夜干し、いっちょ」
じっくり炙った鯖の身は、皮がパリッと香ばしく、箸を入れるとふっくらとした白身がほぐれる。
そこに、おろし大根をちょいとのせて。ぽん酢を少し垂らして。
「……これは、沁みるなぁ」
口に運ぶと、佐伯さんはふうっと息を吐いて、肩の力を抜いた。
「お疲れなのね?」
忍の問いかけに、佐伯さんは、ぽつりと呟く。
「……上司が定年で。明日から俺が、課長だそうです」
「まあ、それは……おめでとう、なのかしら?」
「どうなんでしょうね。でも……この鯖食ってたら、不思議とやれそうな気がしてきました」
にこりと笑う忍。その横で、マサさんが無言で、味噌汁と漬物を添えた。
シンプルだが、丁寧な夜の定食。まるで応援のような味が、そこにあった。
「また来ます。……たぶん、来週も同じもの、頼む気がしますけどね」
「待ってるよ。お疲れさま、課長さん」
佐伯さんの背中に、忍の声がふんわりと届いた。
---
今日のレシピ:鯖の一夜干し定食
●用意するもの:
鯖(半身、塩をふって1晩干したもの or 市販の一夜干し)
大根おろし、ぽん酢
白ご飯、味噌汁、漬物
●調理ポイント:
焼きは中火でじっくり。皮目は焦げやすいので最後に少し炙る程度で。
大根おろしは水気を軽く切って、ぽん酢でさっぱり仕上げ。
味噌汁はわかめと豆腐、ねぎでシンプルに。
ひとことアドバイス
一夜干しは干す時間によって塩味や旨味が変わります。手間をかけて干せば、ぐっと味わい深くなりますよ。




